2014年11月20日木曜日

日本の戦争を遡る…アメリカとの軋轢 Ⅶ

今、衆の解散総選挙が世間を騒がしていますが、
理由は 想像以上に経済指数が悪化したため 消費税増税の時期を1年半延期するということらしいです。
「国民の声を聞け」と普段から言っているマスメディアなのですが、「国民の声を聞こう」という解散総選挙においては批判が多いようです。 いずれにしても せっかく 民主主義の国に生まれ 国民の代表であるそのトップが 民意に問いたいと言っています。 日本国民として選挙に行くべきであり 白紙委任状を託す訳にはいきませんよね…。

色々と 戦争のことを調べているうちに
やはり 大事なのは 政治であり、大事なのは外交であることが分かってきます。
国民が貧しくなるのも 豊かになるのも 政治次第であり、その礎となるのは国民です。
飽食の時代に育ったせいなのか 政治や近代の歴史観などに 興味も無い時代もありました。
恥ずかしいことです…。 

少しづつですが、年号を拾っていきます。

1938年  11月3日 第二次近衛声明 … 
世界列強がブロック経済を確立している中、自存自衛のため 日本 満州 中国(支那)の 防衛、経済統合を実現しようとした 東亜新秩序を主張します。 これが 後の 大東亜共栄圏 構想の下地となるわけです。

日中交戦中の状況の中 作戦上の封鎖地域等における 第三国の中国権益をめぐる軋轢は避け難い状況になり…当然のように 在英米との抵触事例は起きてきます。

1938年 10月6日…アメリカ国務長官 ゴーデル ハルより対日抗議として覚書が送られてくることになります。「日本軍占領地域において 差別的な為替管理 専断的な関税改正 特殊会社の設立による門戸解放主義の破壊により アメリカ国民の機会均等主義がはく奪されている…という内容です。
同年  11月18日 日本側の回答として 当時の有田八郎外相は 「支那事変という非常事態において門戸解放主義という観念的原則を文字通り尊守することはできない」 と反論…
この時点で、日本は九ヶ国条約とワシントン体制を公式に否認したことになってしまいます。
 
さて、中国では日本軍の南京攻略前に逃げ出した蒋介石は 漢口から 重慶を首都と定め身をひそめているのですが、当時 重慶においては 蒋介石と 異を唱えていた 汪兆銘 は 日本との和平を画策をします。

使者による中国側の提起は

1、和平工作は樹立されれば 即刻 汪兆銘は同志と ともに重慶を脱出し、昆明(こんめい)へ赴く。
2、汪兆銘の昆明到着後、日本側は日華和平解決条件を公表する。
3、汪兆銘は蒋介石との関係断絶を表明し、ハノイを経由し香港に向かう。香港で日本との東亜新秩序建設の建設協力と反蒋介石を表明する。
4、この声明に呼応して雲南と四川軍は反蒋介石独立し、これに日本軍が協力する。汪兆銘は雲  南、四川等の日本軍未占領地域に新政府を樹立する。
5、新政府は東亜新秩序建設と日華提携の政策を発表し、平和運動を開始する。
6、新政府の軍隊は5師団~10師団とし、教官は日本より招聘(しょうへい)する。

調整後の要点は

日華両国が 東亜新秩序建設のための善隣友好、共同防共、経済提携、を推進を前提とし

1、日華防共協定(日本軍駐屯地も含む)の締結
2、中国(支那)の満州国承認。
3、中国(支那)は中国内地での居住営業の自由を認め、日本の在華治外法権の撤廃、租界の返  還を考慮する。
4、防共駐屯地以外の日本軍は平和回復後、即時撤退、中国内地の治安回復とともに 2年以内に撤兵を完了する。

等を挙げ、日本政府が上記内容を発表する条件に、汪兆銘は蒋介石と絶縁し、新政府を樹立するという内容です。

このような条件に基づき 第三次近衛声明が発表されことになるのです。

汪兆銘は和平工作に踏み切ります…。
重慶に留まるだけでは 中国(支那)の多くの地域が日本軍に占領され、中国人たちの政府が無く、自国民にとって不幸なことだと考えた汪兆銘は蒋介石と絶縁し、命懸けで重慶から脱出し、時間を掛けながら日本軍を中国から撤退させようとした思惑がありました。

そして、
1938年12月22日 … 第三次近衛声明 汪兆銘との協定を発表(汪兆銘が指定した日時) 

しかし、この時、声明の中で士気に関わるという理由で日本軍の撤兵の条項は省かれます。 撤兵を重視していた汪兆銘はひどく失望したということです…。それは この撤兵という言葉こそが中国各省の心を動かすキーワードに成り得たのではないでしょうか…。
この2週間後 近衛内閣は総辞職し 平沼騏一郎内閣に受け継がれていきます。

同年  12月25日 アメリカは蒋介石への援助を発表 。

その理由は日本の9ヶ国条約とワシントン体制への批判…そして、日本の日中(支)対策姿勢への反対を表明します。

同年  12月29日

近衛第三次声明に呼応するように、汪兆銘は重慶の国民政府蒋介石に和平工作に提議するよう通電を発信します。 その内容は 中国の主権と独立を尊重すると明言した第三次近衛声明を信頼し日華和平の交渉に入るべきと述べ…

「中国(支那)の交戦と目的は 国家の存続と独立である。正義と合致する平和で戦争を収束できるなら、国家の生存と独立は保持できるのであるから 日中(支)抗争の目的は達成されたのである」 と 日華永久平和の確立を訴えます。

汪兆銘の和平提言は 率直に正義漢と勇気に満ちた決断と思われるのですが、蒋介石は汪兆銘を売国奴として 党の永久剥奪を決議します…。また、後の汪兆銘に対する評価は 中国、台湾において日本に寝返った人物として非常に低いようです…

汪兆銘が懸念していたのは 対日抗争の間に中国(支那)共産党が勢力を広げることであり、国民党が体力を消耗し、共産党に中国が支配されることであり、この後の歴史により その懸念は的中したようです…。

1939年…1月 アメリカは日本に対して航空機及び部品の道義的禁輸
 同年…… 2月 アメリカの クレジット禁止という対日経済制裁

汪兆銘の誤算…戦争収束どころか東亜新秩序画策も機能せず。

1939年3月21日…汪兆銘は重慶を脱出して フランス領土ハノイに到着するも 重慶政府が和平提議に報いるため送り込んだ工作員からテロ襲撃を受け 九死に一生を得ます。
汪兆銘の和平提議に呼応し決起すると思われていた 雲南 四川 の領将たちは 蒋介石の中央軍に牽制され動けず また 日本軍に占領されていない諸省ですら一兵たりとも動かず、汪兆銘の重大な誤算が生じ、ハノイに滞在することも危険になり 日本占領化の上海へと 5月6日に脱出します。その後、訪日し日首相および日外相へ中国の独立を訴え 後に 上海で政府樹立活動を行い 北京政府樹立をさせるのですが…アメリカは承認せず、逆勢力である蒋介石の重慶政府を承認します。

同年  5月~9月 … ノモハン事件 満州国モンゴル人民共和国との国境紛争

ソ連との国境紛争の一つであり  その中でももっとも大きな戦闘規模だったようです。
満州国は 日本の傀儡国家 モンゴルはソ連の後ろ盾による独立国家 実態は日本陸軍とソ連の紛争で 結果 日本は一個師団を失い、ソ連も大打撃を受け 9月16日に停戦協定により収束。
ソ連は この2日後 ポーランド侵攻を開始(第二次世界大戦)します。

このノモハン事件により 日本軍は一個師団を失ったにも関わらず 現代戦における 火力 機械力等の物的戦力 物的破壊力を十分に承知しながら その認識をせず 依然として 白兵戦主義や精神主義戦力の過信から脱却できず、後の大戦における敗因と同時に多大な犠牲を払うことになります…。

同年 6月14日  天津英租界封鎖事件

もともと 天津の英租界地は その特権を利用し、国民党 共産党 濫衣社 などの抗日ゲリラやトロリストの潜伏を黙認していました。租界内の銀行に国民党の莫大な資金を蓄えさせるなど 日本軍に作戦上不利な状況を与えており 北支那軍や現地居留日本人から反感を買っていたのです。
そんな時、4月に中華民国臨時政府によって任命された海閑監督(税関高官)が この租界地で暗殺され、その4人の犯人は英国によって逮捕されるものの、その犯人の身柄引き渡しに英国が応じず。その後の話し合いも平行線をたどり、現地北支那軍参謀長が6月7日まで引き渡せと通告するものの、英国は応じないため 参謀長は封鎖という強硬手段を遂行…電流入り有刺鉄線で租界地を囲み 出入りする英国人の身体検査を敢行し、公衆の面前で丸裸にされた英国人もいたようです。その後英国側は身柄引き渡しに応じようとしますが、今度は現地日本軍側が拒否し この際 徹底的に英国人を服従させようとするのです、英国側もその高慢で理不尽な対応を非難し始めます…結果、日本外相 有田八郎と駐日大使ロバートクレーギー の間で 会談が行われ 日支交戦の現状を察し抗日共産分子の取り締まりを認めるなど 英国側が譲歩した形で協定を締結し決着します…。アメリカはこの英国の対日融和措置に対して不服の意を示します。

それから4日後

同年 7月26日  日米通商修好航海条約破棄通告(失効は翌年1月26日)

支那事変以降 原油 銅 機械類 航空機原料 屑鉄 そのような生産用材料が輸入素材の4割を占め その供給源はアメリカであり、アメリカ側からすれば 好きな時に対日貿易を制限し合法的に停止できるという訳です…。

同年 9月 欧州では大戦へと(第二次世界大戦)…。






2014年10月9日木曜日

日本の戦争を遡る…アメリカという国…Ⅵ

今のアメリカという国は
 建国から歴史こそは浅いのですが GDP 軍事力 名実共に世界NO1の国であり 多民族国家でありながら もっとも民主化制度が整った資本主義大国です。世界の富豪もこの国に集中しています。アメリカ国民は博愛精神もあり収入が多い人は多額の寄付をする国でもあります。 国土が広いせいなのか大らかな印象を受けます。また、言論の自由が認められた国でもあり、自らの国に間違いがあれば 国民たちは多数決によって直ちにそれを正そうとする勇気もあります。不効率であっても民意を大切にします。だからこそ歴史が浅いにも関わらず 民主主義国家として とても正当に機能しているのかも知れません。
 戦後の日本人は アメリカの映画 音楽 ファッション クルマ バイク 少なからず影響を受けたはずです…。クルマ好きな貴方も バイク好きな貴方も ハンバ-ガーを食べる貴方も 映画好きな貴方も 髪の毛を金髪に染めている貴方も ロックミュージックが好きな貴方も ハーレーダビッドソンに皮ベスト そして ヘルメットやウェアーに星条旗なんかで装飾したことがある貴方(昔 イージーライダーという映画がありました) 私自身も アメリカのデザートレースを「オンエニーサンデー」という映画で知り 「大脱走」でスティーブ マックウィーン駆るトライアンフが国境の鉄条網を飛び越えようとするシーンに 手に汗を握った部類です…。骨抜きにされちゃいましたかね(笑)

人種偏見
 しかし、アメリカという国は つい最近まで 人種偏見の強い国だったということを忘れてはいけません…。アジアの国々が植民地として列強に統治されていた時代、小柄で黄色の肌を持つアジア人は白色の肌を持つ欧米人と比較し 生物学的に劣るという学説を発表するほど人種偏見が強い国だったのです。 明治以降多数の日本人が移民としてアメリカに渡っていました。アメリカに渡った日本人移民は 我慢強く 楽しみにお金を使うこともなく とても良く働きます。その勤勉さは日本人移民の一部にも財をもたらします。黄色民族がアメリカで成功することを 当時のアメリカ人は決して良くは思わなかったはずです。
 また、長い鎖国時代にも関わらず 明治維新以降 欧米文化や産業システムをわずか1世代かからず吸収し 大国ロシアとの戦争に勝利し 列強に名を連ねた極東の小国日本は アメリカにとって脅威の念を抱かずには居れなかったことでしょう…。 欧米列強が警戒していたのは 共産主義ではなく 日本が東亜の中心的存在に成ることであったと言い切れるでしょう。

先住民族への迫害 開拓という大義…。
 もともと、コロンブスのアメリカ大陸発見以降 アメリカの歴史は先住民インディアンへ対する迫害から始まっています。西部開拓時代はまさに開拓という名の争いの時代であり 国土を広げていきます。メキシコ領だったテキサスを、戦争によって手に入れ 今度は海域を渡りスペインと戦争 ここで キューバ、フィリピン、プエルトリコ、グアムを手に入れ その後ハワイも武力で手に入れます。 これはアメリカだけでなく すべての列強にとって当たり前のことであり、当時、「侵略」などという言葉すらありませんでしたし、文明国は文明の低い地域に対して無政府または無主という扱いをし、これを武力で統治し、住民を奴隷化するのも、虐殺するのも自由だったのです。これが当時の欧米諸国がつくった国際法であり、欧米列強はアジアやアフリカ 南アメリカなどの有色民族の地域を植民地化していきました。そこへ有色民族である日本が大国ロシアに戦勝するわけですから アメリカが日本へ脅威を抱くのも無理も無く、全世界が驚きます。

当時、海外の日本に対する見方 
 満州事変後 中国の提訴により国際連盟から調査のためリットン調査団が派遣された時の海外の見解です。団長リットンは英国人です。

 リットンの意見書より
「我々、調査団は 日本側から『満州は日本の生命線である…。』と繰り返し言われてきた。そして日本は『日露戦争において2年間の戦いを繰り広げ 幾十万の命を犠牲にし 莫大な費用を費やして満州での権益を手に入れた…。』と云う。『日本独自の問題に外国が干渉することは非常に微妙な問題である』とも言われた。しかし 我々はこれらの事はすべて承知の上である。日本の外相に云いたいのは世界がもっと大きな犠牲を払って守り続けてきた秩序があるということだ。国際連盟によって作られたこの秩序こそが現代文明における生命線なのである。」 … 

 満州国建国後 翌年 日本は国際連盟を脱退…。

 それでも この頃、日本の芸術や文化などは欧米諸国から注目を受けます…
リンドバーク夫妻がワシントンから飛行機で80時間かけ、日本の霞が関に訪れたり、喜劇王 チャールズチャップリンが日本橋での てんぷらに舌鼓を打ち、ベイブルースを始めとするアメリカ大リーグが来日し、これをきっかけに日本でもプロ野球が始まったり、ヘレンケラーも来日しています。…日本はすべての著名な外国人を大歓迎しています。

アメリカニュース映画 世論誘導 
中国では盧溝橋事件が発端となり本格的な戦闘が始まり、戦火は上海、南京へと広がっていきます。世界はこの戦争に注目し、アメリカを中心にニュース映画を数多く配信します…。
 
 日本軍が南京陥落後 入城している時の アメリカニュース映画の現地リポートです。
「ちらほらと 飢えた中国人が拍手をしています。しかし、多くの通りは歓迎どころが静まりかえってます。大都市だった南京は最新の爆弾と勝ち誇った軍隊に破壊され、多くの命が奪われました。これらの怪我人には入る病院がありません…」

 南京大虐殺という事件は 戦後 東京裁判で日本人は初めて知ることになります…。当時のアメリカ現地リポーターに聞いてみたいものですね…。

 また、アメリカは日本が経済的脅威を招く国だという ニュース映画も数多く作り、反日感情を露わにしています…。 日本がアラスカで獲れたサケを「芸者サーモン」と銘打ち 不当に安い価格で販売しアメリカの漁師たちの困窮を描いた映画の一幕の中にこのようなナレーションがあります。
 
 「日本の良心に訴え説得出来るだろうか… 日本に道徳を訴えることは すでに中国で失敗している」 

 アメリカ側の 日本に対する不信感は強かったようです…。当時、アメリカの著名経済雑誌には

 「日本人は 列強諸国のプライドを外交で傷付けるだけでは飽き足らず、その懐にまで手を差し伸ばしてきた。色々な条件を考えれば、日本には工業国になれる力は無かった。何か仕掛けがあったのは明らかだ。日本は我々から産業革命を輸入し、すんなりと取り入れてしまった。それは国民に標準サイズの既製服を着せるかのようであった。その結果得られたのは欧米の資本家が舌を巻くような産業の効率性である。それはドイツにビールを売り、アメリカ在郷軍人会に星条旗を売ることであった。こうなると 現在 日本の国以外で取られている産業政策は、資本主義であれ、国家主義であれ、共産主義であれ、すべてが面倒で役立たずの物に思われてくる。日本の産業制度は他のどの国の産業制度とも似ていないのだ。」

国家が最優先すること… 
 さて、ここで、国家とは、友好国とは何なのでしょうか … 例え 同盟国であっても 友好国であっても 国益次第で いつでも解消する。それは歴史が証明しています。…国家の仕事とは国益を最優先することです。表向きは人道的見地や道徳観を訴えながら世論や民意を味方にし 時には戦争を起こすわけです。
 
日本はアメリカの顧客… 
 日中戦争以降 アメリカにとって日本への貿易は増え続け 日本はイギリス カナダ に続く 貿易上の顧客だったのです。それだけに アメリカ商工業界は対日本への禁輸などの経済圧迫は消極的なはずでした…。

 1938年11月3日 第二次近衛声明(東亜新秩序建設)に対して…

 翌4日 アメリカ国務長官 ゴーデル ハル は
「アメリカの対アジア姿勢は国際法諸原則と諸条約規定及び国家間の公正な取引の原則に従う」という声明で反論します…。
 対中国への門戸解放主義に違反すると非難しながら自国はブロック経済化し なおかつ 日本は貿易上の顧客という矛盾を感じます。 そして 蒋介石(重慶政府)への支援を公然と行い 反日世論形成へと …アメリカの駆け引きと喧嘩上手は一流 です。

 同年12月29日
当時の日本外相は東京の外国特派員に対して声明を発表します。「世界列国が排他的ブロックを確立する中で、[持たざる国]日本が自尊の道を確保してゆくにはぜひとも日満支(日本 満州 中国)の自給自足経済ブロックの建設が必要であり、そのためにはアメリカの主張する門戸開放主義も無条件には適用できない」と主張。

 日本は 持たざる国にも関わらず 国民たちの勤勉さで近代工業を目指したということが分かってきます。

「持てる国」 と 「持たざる国」 …ブロック経済

ホーリーストーム法…アメリカの貿易における門戸閉鎖の始まり
ブロック経済… 自国の商品を守るため輸入品に対して関税を掛ける
オタワ会議…世界恐慌対策として オタワで開かれた会議 結果イギリス帝国は経済ブロック

生き残る国 
 このような イギリス アメリカの ブロック経済化で 生き残れる国は「自給自足経済」が出来る アメリカ フランス オランダ ソ連 であり、これらの国には植民地や資源があり 世界的恐慌の中でもやっていけたわけです…。

日本の経済…
 日本は生糸を売り外貨を稼ぎ それで原材料を買い その材料で安い雑貨品を作り海外へ輸出し経済を維持していました。そして その乏しい利益で近代工業を興し、近代的な軍備を備えましす。貿易の相手のほとんどは イギリスやアメリカの植民地だったのですが、アメリカとイギリスのブロック経済化で、日本は大打撃を受け 失業者は増え 農作物は暴落 国内不安は増大します。日本には天然資源が無く 日本の労働者階級を長期に渡り貧乏にしたのは このブロック経済であり、昭和の悲劇であり、そして 当時 そのような国際情勢の詳細など一般庶民には分からなかったはずです。ロシア革命(社会主義)に影響された若者たちの一部に「日本の労働者階級が貧しいのは 日本の指導者階級が悪いからだ。」という思い込みを誘発してしまいます。

アメリカの要求
 日本を取り巻く国際情勢は列強のブロック経済であり、日本に対して輸入封鎖という事態に陥ります アメリカは自国の門戸を封鎖しているにも関わらず執拗に中国の門戸解放を要求します。日本が生存するには 満州大陸への進出しか無かったのかも知れません。
「俺たちはお前のとこから買わないが、俺たちのところのモノは買え」 そんな感じですね…。
日本は今のように最先端技術を持っていなかったでしょう。…その分、労働力を武器に一生懸格安商品を作っていたのでしょう…。

アメリカも失業者が多かった
排日移民法…あくまでもこれは日本における通称です アメリカにおける アジア人の移民に対して制限を設けた政策。

 移民を拒絶され、自由貿易もブロックされ だからこそ食べるために 満州国建設構想へ…列国とはいえ 日本は持たざる国だったのです…しかし、自由貿易なので ブロック経済することも、その逆も自由だったはずであり、相手国を責めるというのも筋違いなはずです…。 持たざる国から持てる国になることを当時の日本は試行錯誤したことでしょう。安い賃金で国民を労働させることが日本の経済だったと言われれば、それも仕方ないことかも知れません…。

 日本と状況が良くに似た列国
ドイツは 第一次大戦で負け ベルサィユ条約で 権益(植民地)をすべて奪われ 莫大な損害賠償金を課せられ、アメリカ イギリスのブロック経済で大打撃を受けます。そこで登場したのはヒットラーです。
 さらに 同じく資源の無い国 イタリアでは ムッソリーニ政権となり、ドイツやイタリアのような「持たざる国」は イギリス アメリカ のような「持てる国」のブロック経済に 対して 国家社会主義という形で国民から支持を受けるわけです…。

 ブロック経済化により危機感を募らせた ドイツと日本ですが、独自の経済構想を構築します。
ドイツは 直接必要な 石油 を 求め ルーマニア油田を 第一目標とします。
日本は 「大東亜共栄圏」構築を目指します。

 自給自足経済が可能な国 と それが出来ない国との争いが 第二次世界大戦であり
大東亜戦争であり、太平洋戦争 であるように思えてきます…

 愚かで 残虐の極み それが戦争だと教えられてきました…。そう思います。
しかし、誰が好き好んで戦争などするでしょうか…戦争とはもっとも非効率かつ公に認められた争いと殺戮です。それでも 戦争を選択せざる負えない各国の事情とは…
そして どんな国でも負の歴史は存在するということ…
 そして 今もなお 起こる紛争は各地で起きています。戦争は いつの世になっても無くならないような気がします。何故なのか? 年号を見てみると
 第一次世界大戦後 その反省から 各国とも戦争放棄を国際法で宣言しています…。
1928年 アメリカの国務長官 ケロッグと フランスの外相 ブリアン の 名前をとって 「ケロッグ ブリアン協定」 別名 「パリ不戦条約」を定めています…但し 自衛のための戦争を除くという内容です…。なおかつ 自衛か否かは 当事国の裁量に任せるという内容です。

でも、今度は自衛のための第二次世界大戦です…。その後も 政治的意図 宗教 思想 民族などの利害で 沢山の紛争が起こっています。自衛のためにならば仕方の無いことなのでしょうか

アメリカ ケロッグ国務長官の議会での発言です…。
「自衛戦争を禁止するものではない。自衛か否かは当事国が決める権利がある。自衛の既定は広範で経済的な脅威に対するものまで含まれる…。」 …

少し 大雑把ですが…大体の素地として流れを記しました これから年号を拾っていきます …



To be continued





 


 


 



 







 

 





 
 
 

2014年9月15日月曜日

日本の戦争を遡る 日中戦争 北支事変 または支那事変 Ⅴ 

 日本は 森と水の国です…それだけでも十分な資源と言えます。
人々も 自然界の営みに合わせ 季節と共生しながら生活しています。
 個人的には 年度が変わる桜の季節は大好きです…
「花は桜木 人は武士」 有名な言葉ですね… 
美しさの絶頂で迎える見事な 散り際…日本人の精神論にまで結びついた言葉です…。

 我が国日本の近代史において是非はあるでしょうが それを直視し、祖国に誇りを持ちたいものです…。しかし、この祖国愛が 時として国同士の争いに繋がっていくことも事実です…
 近代史で一部の年号と拾い上げたような出来事だけでは、一連の流れなど把握出来ないだろうし…自虐史を作成しようという思惑であれば負の部分だけを取り上げれば簡単なことであり、…また、戦争における美談だけを拾い上げ それを賛美することも滑稽に感じます。歴史を信用していると言えば嘘になりますが、その時々の参考文献や所見に その主要人物の言葉などを照らし合わせれば 当時の状況のほんの一部ぐらいは想像できるかも知れません。

1921~22年…日英同盟破棄(ワシントン会議) 代わりに英日米仏4か国協定締結
1922年…9ヶ国条約
1922年…ソビエト連邦設立 スターリンソ連共産党書記長就任
1922年…日本共産党設立
1923年…関東大震災
1924年…アメリカでは排日移民法    参考 オレンジ計画 
1924年…北京政変
1924年…11月24日モンゴル人民共和国がソ連に続く社会主義国家とし独立
1925年…治安維持法公布普通選挙制定 中国では孫文死去
1926年…12月25日 大正天皇崩御 昭和天皇即位  中国では国民党軍の北伐開始 

1927年…日本では…
4月…田中義一内閣発足、5月第一次山東出兵…
11月…蒋 田中会談…国民党政府蒋介石は来日し 田中・蒋会談が行われる(蒋介石も田中義一も共産党駆逐で利害は一致(日本は共産革命による皇室廃止という事態を恐れた 蒋介石もソ連の勢力を恐れ記者会見で「両国の一致により東亜の平和に努力するために まずは支那国民革命の完成を図り…云々…云々…共存共栄の持論ははじめて実現される…云々…」 と述べている。)

1927年…中国では…
1月…にイギリス租界奮取事件…漢口には日本 イギリス フランスの租界地があった。
2月…武漢政府樹立、3月南京事件 
4月…上海クーデター
同じく4月南京政府樹立、…南京国民政府
同じく4月漢口事件
7月国共合作終了、ここから農民 貧困層の共産党と インテリ ブルジョア層の国民党の争い始まる
12月国民党政府はソ連に国交断絶通告… 
蒋介石国民党はこの頃 国民党内部に入り込んだ共産党の排斥に全力を注ぐ…。

1928年…日本では…第二次山東出兵

1928年…中国では…
4月…日本から帰国した蒋介石は国民革命軍総司令として北伐再開…
5月…済南事件 …
前年南京事件の件もあり 日本も北伐に合わせ第二次山東出兵させ居留民保護の体制を整えるものの…蒋介石の要請を信じ防御陣営を解除したところ、蒋介石北伐軍の一部による居留民(日本人)への残虐な殺害事件が起き、周辺各地で略奪まで含むと被害者は400人にも上った。日本軍は12時間の期限付きで北伐軍責任者の処刑と 北伐軍の撤兵を要求するが、北伐軍は応じず…。日本山東派遣軍は攻撃開始から済南城を占拠…。当時の中国軍閥は馬賊や盗賊出身の寄せ集めであり 国際法尊守、軍律厳守など徹底されておらず…便衣兵による攻撃に日本軍は手を焼く…当然 便衣兵のような民間人の姿をし、民間人に紛れ攻撃することは国際法では禁止条項の一つだった。

ロンドンのデイリーテレグラフ 「中国人は略奪と殺人を天与の権利であるが如く繰り返している」「日本人の忍耐にも限界がある」「日本軍の行動は正当防衛」と論じている
フランスやアメリカの新聞 中国の外字紙も 北伐軍に問題があったとしている。
おおむね、当時の国際世論は日本に対して好意的であった…。

この頃あたりから、北伐は北京では終わらず、日本の生命線である満州にも及ぶのではないかという危機感が高まってくる そんな時 
翌6月に 張作霖爆殺事件が起きる。…国民党蒋介石に敗れ 奉天へ逃げる列車爆発事件 

その5日後 …
蒋介石国民党は北京に入りし北伐完了 その一方で 張作霖の息子 張学良は満州に進出し 蒋介石国民党の旗(青天白日旗)を掲げる…これは父 張作霖から受け継いだ奉天軍閥の旗 易幟(エキシ)でなかった…。つまり奉天軍閥は蒋介石国民党に従属したということになる。 いずれにせよ、これは満州大陸は中国の一部だという意思表示であり、これは日本軍と戦うという宣言とも受け取れる もともと満州大陸は万里の長城の外であり、清朝時代から日本権益が認められた大陸にも関わらず。この荒野が経済発展したことにより国民党は満州権益奮取 つまり「返せ…」と言い始める…その後 日本政治は中国との協調政策を重視する外交を試みるも 軍部をはじめ、満州の居留日本人や、日本国内においても 政治の姿勢に不満を抱き 満州事変につながっていく…。

1928年…8月27日 63ヶ国による不戦条約(パリ不戦条約ケロッグブリアン協定)

1929年…10月24日…世界大恐慌
アメリカのブロック経済に端を発し世界中が閉鎖貿易に走る(輸入品に大きな関税を掛け各自国の商品の保護に走る) マルクス論(共産思想)が的中したと理解するインテリ層が増え 日本の青年将校までもが 支配階級 資本家 政治家 のせいで 自分たち兵士の実家が貧しいのだと思い込み この後 五一五事件 二二六事件が起きる…。
1929年…アメリカ フランス イギリスと共同声明で不戦条約違反とソ連(中国と紛争)を非難
1930年…蒋介石国民党は共産党掃討作戦開始
1931年…6月27日 中村大尉事件
1931年…7月2日 万宝山事件
1931年…9月18日 満州事変 柳条湖事件
1932年…1月 第一次上海事変 日本海軍陸戦隊と蒋介石軍との武力衝突…3月まで戦闘は続くが5月には停戦協定成立…
1932年…満州国建立
…1934年溥儀を皇帝にします…。5民族協和政策を打ち出します。満州地域は多民族が居住しており もともとは不毛の無法地帯だったのです…。
1932年…日本では…五一五事件
政党内閣の時代は終わり…しばらく軍人か官僚出身者が首相に任命されるようになる…。
1933年…ドイツでは…1月 ヒットラー ドイツ総統に就任
1933年…2月 リットン報告書国際連盟採択
1933年…3月27日 日本国際連盟脱退
1933年…フランクリン ルーズベルト アメリカ大統領就任 … ルーズベルトは日本嫌いで有名であり、 蒋介石に莫大な支援をします…親中派なのか また この年に 何故かソ連を承認します…

 満州事変は周知の通り 関東軍が 中国軍(張学良)の仕業に見せかけた満鉄爆破事件です。 その後5カ月で満州全土を占領してしまいます…。1932年…関東軍は満州国を建立するも、中国はこれを国際連盟へ提訴。国際連盟はリットン調査団を派遣調査します…結果的に 満州国の建立は認められず 日本は国際連盟へ脱退通告するわけです… もっとも国際連盟で満州国は否認されたとはいえ、ドイツ イタリア スペイン タイ王国などの友好国 同盟国、23か国も含め それまで国境紛争を起こしていたソビエトですら不可侵を約束し公館を設置するほどで 当時の独立国60ヶ国余りの中の3分の1と国交を結び満州国は独立国として安定時代もあったようです…。

1934年…中国共産軍長征(逃避)開始…
蒋介石の共産軍掃討作戦により共産党はソ連に近い延安まで逃げ落ちる…。がその後1935年に 八.一宣言という抗日救国(協力し合い日本と戦おうという意味)宣言を打ち出す。

1933年…塘沽(タンクー)協定 …
満州事変の停戦協定…蒋介石政府(軍)との間で結ばれた協定 関税、鉄道 郵便 電信 などの協定が結ばれた…蒋介石(国民党)は中国共産党の掃討を優先し、日本軍との全面対決を避けたかった思惑が伺われます。… 日本も中国も友好関係を築こうするのですが、抗日派によりテロは続きます。

1935年…ソ連では… 1930年台後半はスターリンの大粛清時代とも言われている
第7回コミンテルン大会でスターリンが砕氷船理論の再確認をする…本当でしょうか?
砕氷船理論とは…分厚い氷を砕氷船で分け砕かせその役目を終えさせたら沈めろ…です。
 えげつない理論ですね。
ドイツでは国際連盟脱退

日本では…
1936年…1月 …ロンドン軍縮会議脱退 
2月 …二二六事件…
5月… 軍部大臣武官制度復活…陸軍大臣 海軍大臣は現役の武官でなければいけない つまり陸海軍が支持しない内閣の成立はなくなる…広田弘毅内閣が23年ぶりに復活させた制度。
日独防協定…ソ連の軍備拡大5ヶ年計画と共産党コミンテルンへの防衛策…これらが反英、反米と受け取られる…後の歴史を見れば中国もアメリカもイギリスも この共産党コミンテルンへの認識が甘かった…ということになるのか…。

1936年…西安事件…
共産党掃討に固執し、抗日に耳を閉ざしていた蒋介石(国民党)は張学良に拉致監禁される この事件により国民党は共産党と手を組み抗日共策が始まります…。

スペインでは…
1937年…4月26日 ゲルニカ空爆、フランコ将軍率いるナチスによって空爆を受ける。史上初めての無差別空爆だと言われている…犠牲者3000人(ちなみに後の東京大空襲は一夜にして10万人) いずれにしても大虐殺だと思います。 ピカソの名画 ゲルニカ は有名ですね。

1937年… 6月 近衛内閣成立

中国では…7月7日、盧溝橋事件 …当初、日本は戦線不拡大の姿勢
最初の銃撃に対して 日本軍は我慢
翌7月8日…最初の銃撃に対して日本軍我慢 2回目の銃撃(猛射)に対して応戦…
翌7月9日…停戦協議成立 7月10日…停戦に関わらず中国軍銃撃 
翌7月11日…停戦協定成立 7月13日…日本の天津砲兵隊修理班が襲撃され4名虐殺
翌7月14日…近藤2等兵惨殺 7月20日…盧溝橋城から日本軍に対して中国一斉射撃日本軍もこれに応じ盧溝橋城に対して一斉砲撃 
7月25日…廊坊事件(ろうぼうじけん)これは 廊坊の電線を修理していた日本電信隊を包囲攻撃
7月26日…公安門事件 これも北平公安門を通過中の天津駐屯日本軍に対して城壁上から乱射
7月28日…日本は戦線不拡大方針を放棄 日本軍(天津軍)は開戦を通告、全面攻撃開始
7月29日…中国軍は南へ敗走…
 ちなみに 近代では日中戦争と言われていますが、当初は北支事変 のち 支那事変と言われていました。 

 今 何かと世間を騒がしている朝日新聞ですが 当時の記事を
北支駐屯軍の演習 条約に基づく権利」(昭和12年7月10日付東京朝日新聞)
わが軍の応戦は全く自衛手段」「演習は条約上の権利」(昭和12年7月10日付大阪朝日新聞)
日本が穏健政策に立還ればすぐに図に乗ってくる、グワンとやられてやつと引込む」(昭和12年7月9日付大阪朝日新聞「天声人語」)
もともと我方から仕かけたことではなく、また仕掛けるいはれもない小ぜり合ひだ・・・向ふがひっこみさへすればそれで事態は収まるのである」(昭和12年7月10日付大阪朝日新聞「天声人語」)

7月29日…通州事件 通州で中国保安隊により日本人虐殺事件が起きる…始まりは日本の誤爆
8月9日…大山大尉虐殺事件 これは盧溝橋事件の和平工作中の事件だった。(元外交官の実業家 船津振一郎を通して蒋介石政府に和平を働きかけている最中だった) 船津和平工作
その後
第二次上海事変へと…
見解様々 歴史は戦勝国によって作られることを ひしひしと感じます。
日本としては東亜の平和と秩序を…つまり統治 それは 他の列強からの自衛手段という見解を他国へ押し付けようとしますが、相手国にとっては決してそうでは無かったということなのでしょう…。
 もう、この頃の戦争は 国力と国力の争いだけでなく、多国へ発信するプロパガンダの時代へと完全に突入した模様です…つまり情報戦だということであり 他国を巻き込むことによって 戦火は拡大していくという状況になっていきます。国の利権(国益)だけの争いよりも悲惨なのは 民族紛争であり、さらに悲惨で長期になる可能性が高い争いは 宗教を含めた思想主義の衝突だと 太古の時代から歴史が証明しています…。だから、平和のために国境線が決められたはずなのですが…。

1937年…10月 シカゴにて 隔離演説
「中立」を主張していたアメリカですが フランクリンルーズベルトはシカゴで演説をします。 要約すれば…
「世界人口の9割の平和と自由と秩序と安全の保障のための国際法は1割の人間に踏みにじられている…不幸にも世界には無秩序という病気が広がりつつある したがって その病原体を隔離しなくてはいけない」…これは ドイツや日本に対しての批判とも受け取れる内容だと言われている それはともかく 戦争への介入をほのめかす内容とも言えます。

1937年12月 … 南京攻略
12月1日…南京攻撃命令が下る 他国から避難されることを考え 無条件降伏(無防備都市宣言)を勧告をするものの、蒋介石が応じなかったため南京城に攻め込む。そして攻撃開始から3日後 あっさりと南京は陥落される…。がいち早く避難した蒋介石はすでに アメリカ イギリス ソ連の後ろ盾を得ることが出来。この後 日本と徹底抗戦の姿勢…。 

参考………………南京事件
参考………………便衣兵
参考………………督戦隊
参考………………堅壁清野(けんぺきせいや)

12月12日…パナイ号事件…日本軍のアメリカ輸送船への誤爆 たぶん根にもっていたはず。

1938年…1月16日 近衛文麿首相は近衛声明を発信
蒋介石国民党に対して和平を試みるも回答を得られず 近衛文麿は「帝国政府は国民党を相手にせず、帝国政府と真に提携するに足る新興中国(支那)政権の成立発展を願い、これと両国国交を調整し再生中国(支那)の建設を協力せんとす」 蒋介石国民党との断交宣言。

4月…国家総動員法を公布… 国民総動員体制となり、日本の自由主義は崩壊します。
国家が人的資源や物質的資源を自由に運用できることであり、国民の自由意思は認められず国家命令が経済活動を支配するということです。つまり釘一本動かすのも官僚たちの書類が必要であり、行き着くところまで行った経済統制だと思えます。
この頃は軍部の影響力が強くなる中 官僚たちの間でも右翼社会主義に傾倒し 革新官僚たちが現れ全体主義国家構想が政府を支配していきます。 
そのような革新閣僚たちが1937年10月25日に経済統制推進のために企画院を設立するわけす。そしてこの国家総動員法が翌年に企画院によって公布されるのです。
 この企画院(経済参謀みたいなもの)の生みの親は近衛文麿首相なのですが 
細川護熙 元首相のおじぃちゃんでもあるんですよねぇー…。

10月…武漢(武昌 漢口 漢陽)が日本軍によって陥落
ここで、盧溝橋事変から始まった日中の本格的な戦闘は終わり 中国各地の治安は個々の自治政府によって維持されることになると思えたのですが、今度は中国内で日本と徹底抗戦か和平かで対立、南京政府の汪兆銘 と 重慶政府の蒋介石 と 延安政府の毛沢東 で 三つ巴の対立抗争が始まります。 そこへ 日本 アメリカ ソ連 が 勢力へ加担し 内戦介入します。

11月 近衛文麿首相は2回目の声明 
東亜における(日本 中国の三国 満州)における経済統制を発信 東亜新秩序を呼びかける 日本にとって いくら出兵させても 切りが無い日中戦争の早期解決が切実な問題となり 一回目の声明を修正するのですが… この頃は世界の列強はブロック経済(自製品保護)体制状態であったので このような呼び掛けで 東亜において経済統制をしようとしたのでしょうが…
流石に 中国大陸に権益を持っている イギリス や これから権益増大を図る アメリカは 黙っちゃおりません…  


 この後 日本は日中戦争を抱えながら、アメリカと厄介なことになっていきます、当時、日本という国はアジアで唯一 列強に名を連ねるルーキーだったわけです… アジアで唯一の列強国が抱えた宿命を感じます。アジアの代表として東亜の平和と共存のため他の列強からの自衛手段としてどうしても満州大陸は生命線だという考えがあったのでしょうが…今の感覚ではちょっと計り知れないように見受けられます。

 WIKIあたりで当時の歴史を閲覧すると 色んな学説があります… どれが正しいのかなど考え得ることはできず様々な側面からの考え方があるようです。戦争で負けた側が領土とその権益を割譲した上、莫大な賠償金を支払う。それが国際法上のルールであったのは瞭然です…。現代の感覚で戦争というものを語ること自体が間違いの元のような気もします…。早い話 戦争に良いも悪いも無く、勝つことが正義なのかも知れません…そのために 沢山の犠牲を払わなければいけないということです…。

 独断と偏見ですが 栄枯盛衰 いつかはどんなに栄えた国も終焉が来るのでしょうか。
 栄華を極め 広大な土地を統率し最盛期には周辺隣国から最強と言われた 清の衰退は日清戦争以前から始まっていたのです。我が国日本も開国し 侍の文化を捨て 刀から鉄砲 ちょんまげを落とし7.3分けに、西欧文化を取り入れ近代化の道を選択したわけです。まだまだ清朝では弁髪を首に巻きつけ青竜刀を振り回していたのではないでしょうか 近代武装をした西欧の列強に敵う訳もなく阿片戦争敗北、日清戦争も3か月余りで敗北、義和団の乱にて列強8国に宣戦布告するものの敗北 その都度 相手国に有利な条約を結び、莫大な賠償金をむしり取られていくわけです。そりゃー 国を憂う資本家やら知識人やら愛国者は黙っておれなかったでしょう…。
 「この国は他国の植民地になってしまう」 「冗談じゃない」 「清朝政府はダメだ」… 日本で近代教育を受けた 孫中山こと孫文が指導者となり打倒清朝を掲げ 辛亥革命 が始まるわけです。翌年 中華民国政府を仮設立し、臨時総統に孫文が任命されるのですが…あくまでもこれは暫定政府であり、まだまだ清朝の残党たちはゴチャゴチャ残り一国多政府状態だったのです。 
 清朝で最強だった袁世凱(えんせいがい)率いる北洋軍に孫文率いる革命軍討伐の命が下ります。孫文…「困った」…なぜなら 革命軍は素人、相手はプロです。敵う訳がありません。やむなく 孫文は 清朝から中華民国政府への寝返りを袁世凱に頼み その条件として総統の座を袁世凱に譲ることになります。 袁世凱が寝返れば もはや清朝には力はなく ここで 清の皇帝 溥儀は退位するわけですね
 ところが この袁世凱 中華民国初の選挙で選抜された国民党のメンバーを暗殺します。さすがに孫文も怒り、袁世凱に対し武装戦闘を挑むのですが返り討ちにされ 日本に亡命してしまいます。北洋軍は強かったということです。
 その後 袁世凱は皇帝を自称します。このような状況下 日本も清朝時代に築いた権益引き継ぎぎ、在華邦人の保護のため 5号からなる21か条をお願いします…。いくら袁世凱が北洋軍を率いていたとしても 日本には敵わないので ソ連に泣きを入れるも 渋々16カ条だけ結びます。
 
日本  …… 「清朝さん時代に引き続きよろしくお願いしますわ」
袁世凱 ……心の中…「まいったなぁー 日清戦争じゃ北洋軍はコテンパンにやられたし」
日本… 「 まさか ダメなの 」
袁世凱……心の中…「21カ条全部受け入れたら 民衆から腰抜けと思われるし…」
日本… 「 返事はぁー 」
袁世凱…「あのー、16カ条だけで勘弁してもらえないでしょうか」
日本… 「ち、しゃーねぇーなぁー 分かった よろしくな 」

 これじゃー国民の求心力を得ることは出来ません…その後袁世凱は病死します…。

 北京において袁世凱死後 北洋軍はまとまりがなくなり 安徽派(あんきは)と直隷派(ちょくれいは)で分裂し争うことになります。ちなみに列強国も抜け目なく この派閥争いに加わっています。 安徽派は親日的な活動をし、直隷派はアメリカの支援を受けていたのですが、、その後 馬賊出身の 張作霖(ちょうさくりん)率いる奉天派が 直隷派に味方し 親日の安徽派は破れてしまうのです…。 日本の勢力後退 が、…
 安徽派と奉天派の共同政権が始まるのですが、またここで仲間割れが起こります。そこで 日本は 支援していた安徽派が敗北したため張作霖(ちょうさくりん)率いる奉天派を支援をします…。結果 奉天派が勝利します…
 しかし、欧米列強イギリスやアメリカは 張作霖に 権益拡大のためすり寄ってきます…。時は第一次世界大戦も終わり ベルサィユ条約において 満州にある敗戦国ドイツ権益を日本が引き継ぐことなどの理由で 帝国主義反対の 5.4運動が中国全土に広がり 抗日ムードだったのです…。
 特に大陸権益に出遅れたアメリカは満鉄に対抗すべく鉄道建設支援に乗り気であり 張作霖は支援を受けていた日本に対して決別の意思を強めていくことになります…。
 この頃、 広東政府の国民改革軍(国民党)が配下の共産党と共に北京政府打倒のため北伐に向かいます。2回目の北伐で、張作霖 奉天派は敗北します…。この時の国民党リーダーが蒋介石で、その頭角を現してきます…。 
 国民党に敗北した 張作霖は奉天に向かうため列車で逃亡します…。
日本では内閣(田中儀一内閣)と在満州関東軍の間で 張作霖の対応に意見が分かれます…田中儀一は張作霖を再起させたいという意向 関東軍は傀儡政権には限界があり 張作霖は 日本に対して害を及ぼすという意見でした。…この段階で関東軍には 当てにならない傀儡政権でなく、傀儡国家構築 つまり 満州国建国の構想があったのではないでしょうか…
 張作霖は 関東軍の河本大作らの謀略により 逃亡中の列車爆破事件により死亡します。
このあたりから 日本軍部の独走が少し見えます…
 張作霖 死去後 息子の張学良(ちょうがくりょう)に奉天軍閥は受け継がれました。父 張作霖の教育方針により張学良は高い教養を身に付け満州軍閥争い時代は 親子で日本に協力的であり、20歳の時に訪日しています。しかし、父の爆殺事件以降は抗日に転じ、蒋介石率いる国民党の旗(青天白日旗)を次々と満州の各地に掲げ 反日感情を激化させていくのです。…日本軍によって父親を殺されたのですから その恨みもあったはずです。… 在満州関東軍としては日露戦争で大きな犠牲を払いながら得た 満州大陸の権益に危機感を感じます…。
 
 満州事変後 日本は満州に進行凄まじくみるみる占領していきます。 これには日本の内閣も困惑します。なぜなら列強国のひとつ アメリカが非常に怒っていたのです…さすがに政治側からするとアメリカ に睨まれることは厄介なはずです。アメリカの国務長官スティムソンは日本の外務大臣 幣原喜重郎(シゲハラキジュウロウ)に戦線の拡大停止を要求するのですが…すでに関東軍 戦線拡大をしてしまった後で アメリカ激怒します。他の欧米列強国も非難し始めます…。
 
日本は満州国建立後…国際連盟を自ら離脱します…
満州国は、溥儀を皇帝に五民族共和主義を政策に取り入れ独立国への道を歩み 特に停戦協定が結ばれ何事も無い期間が四年ぐらいは続いています…。

 内紛状態の中国も 一致団結抗日戦への決意を固めだします。かって関東軍に父親を殺害されたと思い、日本への忠誠は消え抗日派に転じた張学良だったのですが、蒋介石の方針により優先的に共産党と戦い 日本にはほとんど抵抗を示しませんでした。、これは 上の年号にもあるように 塘沽協定(停戦協定)を結んでいた理由もあり…。蒋介石は欧米列強から支援を受けながら 列強日本よりも共産党への対峙を優先していたのかも知れません…
 しかし、張学良は延安(えんあん)で共産党軍と戦いを続けるうちに 同じ中国人同士の殺し合いに疑問を感じ、徐々に共産党が主張する抗日民族統一戦線に共鳴を受け、蒋介石を拉致監禁し 共産党と協力し日本軍と戦うことを説得し同意させます。これが上の年号にある西安事件です。   翌年、盧溝橋での中国側の発砲により 盧溝橋事件が起き その後 本格的に日中戦争が始まるわけですが、盧溝橋事件の前、日本が知らぬ間に、国民党と共産党で第二次国共合作を成立させ…実質中国は一枚岩となっていたのです…。 しかし、この裏にソ連コミンテルンの存在があり、国民党政府を日本軍と戦わせお互いを疲弊させる目的もあったとも言われています もし、そうだとしたらそのコミンテルンの諜報活動は成功したということです。 蒋介石も最終的には 毛沢東率いる共産党軍に敗れ戦後台湾へと逃亡します。 張学良は西安事件後 自ら進んで国民党政府の裁判に出廷し拘束下におかれ 国民党敗北後、蒋介石とともに台湾へ移り、ほぼ生涯軟禁状態の生活を送るわけです。2001年まで存命しています。 蒋介石と張学良の間には何があったのでしょうか とても興味深いです…。

 日露戦争に勝ち、アジアで唯一 列強に名を連ね…第一次世界大戦でも勝ち抜いてきた当時の日本軍は非常に強かったということが分かってきたのですが…各国の思惑まで支配することはできないということですね まだまだ、戦争は続きます…。

to be continued
 



2014年8月25日月曜日

日本の戦争を少しだけ遡る…列強の世界 Ⅳ

 最近の話題のひとつに 集団的自衛権を認めれば 戦争の抑止となる。もしくは否かなどTVで議論されていますが、このような議論をする人たちは 日本が戦争に巻き込まれる可能性が どこまであるのか考えているのでしょうか… とても興味があるところです。
 太平洋戦争後 小さな紛争は世界各地で起きていることを忘れてはいけないように思います。過去の戦争は 小さな紛争から 事態は大きくなっているような気がしてなりません…今は トリガー(引き金)を指一本で引ける近代戦です…。

我が国の太平洋戦争前を さらにしつこく 日本以外の列強国を含め探ってみたくなりました。
 … 日本が一方的に 満州事変以降 進軍し 満州国を建国させ溥儀を皇帝にし 中国の反感を買うという どうも 日本だけが戦争に突き進んでいるような印象が強いのですが…実際そうなんですけどね…。しかし、戦争というものは 終結段階で 賠償金なり 領土の返還なり 負けた方がそれなりの代償を被ってきたわけであり そこで条約という 当時の国際法が存在していた訳です… 
…そこで

 他の国はどうなの?ってことです…

ならば アメリカは?ロシアは?イギリスは? 中国は?

ちと、さらに しつこく…  日清戦争直前から… おさらいを兼ねて 

 さらに それ以前となれば 日本は鎖国状態ですし  西欧米国は 侵略 搾取型植民地政策のオンパレードですし 帝国主義が世界中を席巻しその中に巻き込まれる国は多数あったはずです…。
 1842年…南京条約…イギリスと清国の阿片戦争終結に向かう講和条約です…。この戦争 イギリスの勝利ということなのですが、清が気の毒のように感じます…。そもそも清とイギリスのお茶の貿易が イギリスにとって赤字だったということから始まります。イギリスは この赤字の穴埋めのため インドで阿片を栽培し清へ輸出するわけです。… どう考えても阿片はまともな商品ではありません…。清は様々な方法で阿片の受け入れを拒否するわけなのですが、イギリスは自由貿易と開国をタテに戦争にもちこんでいくという訳です…。
 南京条約で イギリスは 清から香港を割譲(この時は永久) 賠償金 あとは清に主要港の開港をさせます。  
 他の列強国も
1845年…マカオはポルトガルの植民地へ
1894年…日清戦争 日本も賠償金と台湾と遼東半島の割譲を受ける(後 三国干渉で遼東半島返還)
1898年…香港領域拡大協約においてイギリスへの租借を99年間とする。(1997年返還しています) まぁー 清の時代の約束を守ったということですね。
1900年…義和団の乱 清西太后が列強8国に宣戦布告 以降 ロシアは満州に居座る
1901年…北京議定書 清朝と列強8か国 仲裁も列強国 莫大な賠償金は分割払い
1903年…パナマ運河条約 11月にパナマがコロンビアから独立 コロンビア自体がスペインから独立した国なのですが、パナマ運河建設をコロンビアに拒否されたアメリカがパナマを保護国として独立させ、パナマ運河地帯幅16Kmの主権をアメリカは獲得します…。当時 コロンビアではパナマ地帯の独立派が居たということもあり コロンビアはアメリカの圧力に屈したということです…。

 この頃、他の列強国も植民地獲得で忙しかったということ…。そんな時代だったのでしょう。

ドイツは 
ベルリン ビザンティーム バクダートを結ぶ地域を勢力下にし 中国へと進出する3B政策

イギリスは…カイロ ケープタウン カルカッタを結ぶ3C政策…ドイツと対立

フランスは…モロッコを

オランダは…インドネシアを獲得

ロシアは…南下政策で奉天を占領  その頃 日本も満州大陸への進出を強めていた。

1904年…日露戦争
1905年…9月ポーツマス条約(日露戦争の講和条約) 
1911年…辛亥革命 翌年 中華民国 建国 …但し 一国多政府という乱世の地域

1912年…清の溥儀皇帝の退位 当時溥儀6歳 溥儀は3歳で即位しています。 ラストエンペラーという映画にもなってますね…。
 溥儀が退位する条件を参考までに…
清朝と中華民国との間で「清室優待条件」という約束が締結されます。これは退位と引き換えに溥儀が紫禁城に居住し、中華民国政府が清朝の皇室に対しお金を払い 清朝の陵墓を永遠に保護するというような内容…なのですが、後に中華民国 国民党の軍が清東陵の墓室を破壊し略奪するという 東陵事件などが起きている…この事件により 溥儀が日本に接近するきっかけともなる…。

1914年… 6月 第一次世界大戦 始まる(サラエボ発)

1915年…アメリカは債務返済を理由に海兵隊をハイチに上陸させる…数十万人のハイチ人がキューバやドミニカへ亡命 1934年まで実質アメリカの軍政が続き 憲法などが導入された。


1915年…1月 中国へ 21箇条を要求…。 中国(中華民国)の建国から3年後です。
 この21箇条を中国へ要求したのは 日本側にも 理由がある訳で、消滅した清朝の時代からの条約を 引き継いで中華民国(中国)と締結し直す必要があるということ。…
 イギリスも清朝時代に結んだ 香港の租借条件を 引き継いだ訳ですから…中国側からすれば不当だと思う一部も居たかも知れませんが 日本側からすれば当然だと思っていたはずです。まだまだ、中国は各地に軍閥が現れかねないという群雄割拠状態で治安維持能力が無く…それにより大きな犠牲を払って得た日本の権益が脅かされていたのも事実だと思います。
 早い話 この21箇条は日本からのお願いというより 当時の建国 間もない中国にとっても 西洋列強国から自衛のため 利害が一致しても良かったはずであり、少なくとも辛亥革命によって中華民国の独立へと導いた 指導者 国父 孫文 が 中国の臨時大統領に就任した頃までは 日本と手を組み西洋の圧力を跳ね返すような考え方はあったのではないでしょうか。
 孫文は1913年から1916年まで 中国を追われ日本に亡命しています。まだまだ 中国は 第一革命に第二革命が勃発するほど不安定であり。21箇条の要求は日本側の横暴のように言われますが、中国(中華民国)の独立建国が1912年 その当時の臨時総理大臣が孫文であり それから1年もすれば 孫文は中国を追われ日本に亡命してしまうわけですから… 在華邦人の保護のための5号からなる21カ条の要求はあって然りのような気もします。 
 ちなみに 当時の中国の統率者は袁世凱です。
1915年…5月25日に 21箇条要求のうち 16箇条で締結されることになります…が
 
同年
1915年…6月には「懲弁国賊条例」なるものが中国で発布されるのです。
  これは 日本に対しては 日本人の居住を認めるような条約を締結しておきながら 中国内においては…「日本人に土地を貸したものは 問答無用で死刑に処す…」そんな内容であり 実質的に条例を破っていたとも言われていますが…真相のほどは?

1917年…3月 ロシア革命
1918年…ロシアは第一次世界大戦で単独講和

世界初の社会主義国が誕生するわけですが…

1919年…5月4日 5.4運動 これはベルサイユ条約の結果に不満を抱き 北京から全土に広がった抗日反帝国主義を訴えた大衆運動…大戦後、パリの講和条約で 日本はドイツの持っていた山東省の権益を そのまま引き継ぐことになります。これが国際的に承認されるということに対する反対運動です…。
 よーく考えてみると 中国も清朝の時代から 阿片戦争以来 列強国からの脅威にさらされ 帝国主義が世界中を席巻していたわけで そんな中 ロシア革命が起き アメリカも連邦議会で民族自決主義が盛り込まれた 14カ条の平和原則 を発表しています…。その内容に感化された大衆たちの間でデモが起きても仕方が無いのかも知れません。

1919年…6月26日 ベルサィユ条約 調印
 
 民族自決主義というのは 各民族が自分の好きな政治組織に属し 他民族への干渉をしないというような 民族独立的な考え方です… 但し、アメリカやイギリスの租借地(植民地)や併合地には関係無く この原則は多民族が居住しているヨーロッパへ対するルールのように思えます…。
 また このアメリカの自決主義の盛り込まれることにより 民族間の争いや 迫害の火種に成り得る要因の危惧に繋がります…。
 
 このように平和運動やら 軍縮やら 色々と 人類は平和へと願いを馳せるのですが 戦勝国が正義である以上 戦争の歴史は終わらないようです…。まだまだ 日本を取り巻く国際情勢は 様変わりし 日本もそれに翻弄されていきます…。

To be continued





 

2014年8月21日木曜日

日本の戦争を少しだけ遡る さらに大雑把に…Ⅲ


未だ、地球上での紛争は絶えず
歴史の節目は戦争によって 作られてきたと言っても過言ではないのかもしれません。

 我が国 日本も明治維新以降 アジアにおいて いち早く 開国和親を掲げ万国公法の尊守を布告し 万国対峙のため 強国自立を目指すことになります。富国強兵のスローガンと ともに我が国日本は戦争の真っただ中へと踏み込んでいきます。

 1932年に起きた 五一五事件をきっかけに 政治家たちは反軍的な言葉を差し控えるようになっていくのです…。また 現職総理大臣を殺害したテロが さらに大がかりな 二、二六事件へと繋がっていきます…。昭和天皇を 「自ら近衛師団を率い現地に向かう」 とまで言わしめた事件です。
 五、一五事件は海軍将校が起こしましたが、
 二 二六事件は陸軍の若い将校たちが首謀者です。
 軍事演習と称し兵卒を引き連れ その総員は1483名。 岡田啓介内閣総理大臣 鈴木貫太郎侍従長 斉藤実内大臣 高橋是清大蔵大臣 渡辺錠太郎陸軍教育総監 牧野信顕前内大臣を襲撃  そして 総理大臣官邸 警視庁 陸軍省 参謀本部 朝日新聞社と 永田町一帯を占拠します。

 背景には 東北地方を中心とした地方庶民の困窮と生活苦 それに対応出来ない政府の無策ぶりに憤慨した志高い青年たちの暴走ということになっています…。これは五、一五事件と共通です。
 また、皇道派と統制派の派閥争いが根底にあったとも言われています。
 天皇陛下は近臣に騙されているという若い将校たちの勘違いもあったかも知れません… 世直し的発想もあったことでしょう…。果たして若い純粋な愛国者たちは国際情勢や政治に熟知していたのでしょうか…。
 
 この事件の首謀者たちは 皇道派(天皇崇拝絶対主義者)でありながら 天皇陛下から絶対的信頼を受けている人物たちを襲撃し殺害するわけです…。 天皇陛下の父親代わりである 鈴木貫太郎。 金融恐慌において経済手腕を発揮し、天皇陛下から絶対的信頼を受けていた高橋是清は軍事費削減を訴えていた政治家の一人です…。襲撃対象の中には海軍関係者も数多く居たわけで この事件後 陸軍と海軍の軋轢を生みだす原因ともなっていきます…。
 
 それまで 立憲君主の大原則として「君臨すれど 統治しない」 
政治に口出ししないという昭和天皇がはじめて自ら意見を述べ 激怒します…。
 天皇陛下の意向を重視した 警察や陸軍は これら襲撃犯を反乱軍として扱い 戒厳令を布いた上で鎮圧にあたります…。首謀者たちの中には拳銃自殺をした者、逮捕され裁かれた者(銃殺)さまざまな結末になります…。(五一五事件では処刑もなく、その後 恩赦で全員釈放されています。)
 
 歴史の裏側になることですが、
 当時 人材発掘の意味で選挙はあったものの 政府実権の一部を握っていたのは 一部の血族財閥であり その系列企業であることです。
…例え 総理大臣に対しても その影響力は強く、政界と強く繋がりがあったということ…。

かりに政治も財布も軍部が掌握したら…どうなるのか…
 
 二二六事件で 襲撃されたのは 海軍出身で戦争回避派、また 天皇機関説を支持する当時の首相 岡田啓介(難は逃れるものの その後求心力を失っていきます)と その片腕であり 軍事費削減政策を強く推し進めようとした 高橋是清(死亡) 等 であること…
さて 軍事費を削減されたら…どこが(誰が)減益を被るのか… 色々と興味が湧くところです。
 
 五一五事件の前年
1931年 満州事変が勃発 ここで 日本と中国(中華民国)の間で武力紛争が起き 5カ月で満州全土を占領しています…。 きっかけは南満州の鉄道の一部が爆破され、当時これを日本陸軍(関東軍)は中国側の仕業とします…が 実は 日本陸軍(関東軍)が爆破していたのです。今で言う自作自演…。 満州鉄道は日露戦争でその権利を 日本がロシアから譲り受けたものです。
 
 さて中国の状況は
1911年…辛亥革命 が勃発し 
 その翌年 中華民国が建国され孫文が指導者となり…。
 当時6歳の清朝廷 幼帝溥儀は自動的に退位し清朝廷は完全に滅亡します。
 翌年1913年に第二革命によって袁世凱が孫文を排斥。孫文は日本に亡命
中華民国は何人かの総統が1~2年単位で交替する中、やがて共産党の勢力も台頭し始めます。
 蒋介石率いる国民党 と 毛沢東率いる共産党が政権を争ってる間、日本軍は中国への勢力を強めていくわけです。

 そのような経緯から 1932年…日本軍(関東軍)は清朝 最後の皇帝 溥儀(西太后が母親)を担ぎ出し 満州国を建国させます…。中国もこれには黙っていませんでした。結果 欧米列強国は満州国建立は認めず国際社会から日本は孤立していくことになります。

1931年… 満州事変 の 後
1932年… 3月 満州国建国 
  同年 … 5月 五一五事件が起き 
1933年 …日本は国際連盟脱退(満州国の建立は国際社会が認めず)
1934年… 日本はワシントン海軍軍縮条約を破棄
1936年… 二二六事件 
1937年…  7月7日 盧溝橋事件 日中戦争が始まります。

 五一五事件と二二六事件の大義には国民の暮らしが含まれているのですが、 この二つの事件の以前から その間 そして以後まで 既定路線のように軍閥へと向かっています…。この二つの謀反によって 政治家は反軍的な言葉は控えられ 陸軍統制派にとって扱いにくい極右翼的思想集団も排除出来 政治的な勢力を強めていくとになります。

この後 日中戦争は泥沼化…。
1938年…国家総動員法
1941年12月8日 日米開戦(太平洋戦争勃発)

少し大雑把に年号を並べてみても 何故 このような戦争が起きたのかまったく分かりません
間違いや見解の違いもあるかも知れませんが も少し深く歴史の中を覗いてみたくなりました。

… to be continued







2014年8月19日火曜日

 大雑把に 日本の戦争を少しだけ遡るⅡ


この頃 日本国内では 軍閥の足音が聞こえてきます…。

1932年5月15日 …五.一五事件
 海軍の青年将校たちと 民間の右翼青年たちが首相官邸に乱入し 当時の首相 犬養毅を射殺します…。 当時の政治に不満を持った 軍部の反乱…。日本は不況で 農家などの惨状なども訴えた上で 政治の大企業(財閥)癒着における汚職や腐敗に対する謀反の要素も大きい…。
その以前も 1930年 ロンドン軍縮会議に会議に参加した当時の首相 浜口幸雄 も アメリカ イギリスに対して弱腰であるという理由で 暴漢に襲われている
 農家が実家である若い将校たちも居ただろうし 当時は軍隊への入隊は志願なので 3度のメシのために入隊した若者も多かったんじゃなかろうかと … 勝手な推測ですが…。
 
1936年2月26日  …二、二六事件
 今度は 陸軍のクーデターです…。陸軍の青年将校たちは 首相官邸 警察庁 朝日新聞社  を占拠し 高橋是清大蔵大臣 斉藤実内大臣らを 殺害…。
 これは軍の派閥争いから起きた様相が大きく 二二六事件と比較すると規模が大きく1500人近い兵を率い決行されています。
 天皇の名を利用し 悪政を行う者は許せん…そんところでしょうが、結局 天皇の激怒を買い 天皇の命により鎮圧されます…。この根底には陸軍内の派閥もあり 当時 皇道派 と 統制派 に 分かれ この事件の首謀者は皇道派の20代の若い将校たちが中心でした。

 皇道派は…天皇に親政を望み 邪魔する者は 武力をもってでも排除するという考え方
 統制派は…合法的に政府に圧力を与え 自分たちの理想的な統制を図るという考え方

 結果、天皇の命によって統制派の軍部は 皇軍派を一掃します。ここから統制派が力をつけていきます…。

 この二つの事件は 共に予算緊縮による軍縮 も 含め 農村地域への配慮 また 財閥企業との癒着や汚職など 様々な政治に対する不満なのでしょうが、政府の対応が微妙に違います。

 五一五事件も 二二六事件も 当時の日本は大不況だった背景があります。
 金融恐慌 関東大震災  おまけに アメリカからの世界大恐慌に日本も巻き込まれ、どうしようもないデフレに陥っていたようです。
 昭和三陸地震、冷害 東北地方の酷い惨状のなか 農村地域では生きてゆくための手段として、若い女性の売り飛ばすということは当たり前であり。 それでも欠食児童が増え 江戸時代の4大飢饉に匹敵するほどとも言われています。

 輸出等の経済対策により一度は経済は持ち直すものの いち抜け政策に欧米市場からやっかみを買い追い出され、仕方なく 台湾や満州などの 身内で貿易を始め 経済が回復するには これからという矢先でした。
 さらに軍にとって面白くないのは 軍事予算を減らされることでした。

 第一次大戦によりヨーロッパ諸国は
「皆で軍隊減らせば 戦争は起こらない…」そんな風潮に変わってきました。

 日英同盟により 戦勝国イギリス側に付いている日本にとって 海軍の国際会議に参加せざる負えず、当然 海軍は憤慨します。ここで面白いのは当初 軍縮を決定した当時の総理大臣は 選挙でぼろ負けし、後釜に犬養毅が総理大臣に受任しているので 殺害された犬養毅は関係ないように思われます…。 が 
いずれにせよ 世論も政治には不満があったように思われます。

五一五事件の場合
 決行総員は少なく 若い海軍将校がほとんどであり 決行総員も少なく どちらかというとテロ的要素が強い事件でした。経緯を知った世論は同情し、助命嘆願運動が起きるほどで、…

 誰一人処刑されず。すぐに恩赦で釈放されています…。


さて、それから4年後 
二二六事件が起きます… 
 同じ軍人の決行でも 五一五事件とは少し様相が違います…

天皇陛下は お怒りになります…。





 To be continued









2014年8月17日日曜日

終戦記念日 も過ぎ …日本の戦争を少しだけ遡る Ⅰ

よく、太平洋戦争のワンフレーズだけで 戦争が語られ
ある時は自虐史観となり ある時は戦争賛美ともなる…
それぞれの国の言い分もあるはずです…。
おさらいですが、おおまかに 明治以降 日本の戦争を振り返ります…。
原爆を2発も落とされ 完膚なきまで叩きのめされた敗戦までの
大きな布石が いくつもあるはずです。…。



1894年…日清戦争までの経緯



1882年 壬午軍乱(朝鮮事変) 清の従属国であった朝鮮は日本から軍事顧問を招いて改革を試みるも 親清派のクーデターにより 日本公使館が襲撃され 日本の軍事顧問が殺害されます。
 


内情は


守旧派の大院君(高宗の父)=大事党 
VS 
改革派の閔妃(高宗の妻)=開化党日本


当時の李朝は国益のことは考えず派閥抗争しか考えていなかったのでしょうか コロコロと組む相手が替わっていることが伺えます…。


軍隊の近代化を日本に見習おうとした開化派なのですが、


閔妃一派は腐敗しており、内部反乱が起こるわけです。そのことを利用し対立していた大院君が閔妃一族と多数の日本軍事顧問を殺害します。この段階で大院君の謀反は成功したかのように見えますが、今度は閔妃が清国の袁世凱にすり寄り反乱鎮圧を理由に清国軍が派遣され、大院君は閔妃に売られ幽閉されることになります…。 この時 この事件の事後処理として 日本との間で済物浦条約が結ばれ、李朝では、軍事 外交 とも 清の顧問が置かれ されに属国化していくことになります。


1884年 甲申事変 朝鮮は日本の明治維新を模範とし改革を独立派が日本からの支援を受けようとするのですが、清が鎮圧します。


内情
壬午軍乱(朝鮮事変)によって 李王朝は清の属国化が進んでいくことになるのですが、壬午事変により亡命していた金玉均(キンギョクキン)らが福沢諭吉 後藤象二郎 などの支援を受け 高宗を取り込み クーデターを起こします。閔妃一族の 悪貨乱発や神託政治 など腐敗した政策に加え、実権がまったくなかった 高宗は同意することになるわけです。当時 清国はベトナムでフランス軍と戦争中でもあり、日本の援助による立憲君主制度の確立と 維新と近代化を目指した 開化派は1884年12月4日にクーデターを起こし、成功したかのように見えたのですが、ベトナムでフランスに敗戦した清国は 朝鮮まで失うわけにはいかず、袁世凱率いる清軍を送り込み 3日で開化派の内乱を鎮圧します… 開化派は 再び 日本に亡命しますが、多くは金玉均も含め 一族もろとも処刑されます。


1885年 天津条約 日本側全権の伊藤博文と清国側全権 李鴻章(朝鮮)との間で条約を結ぶ…


内情
壬午事変や甲申事変などで 朝鮮半島を巡って 清国と日本が争うことは両国にとって得策ではないと判断…。
天津条約の要点は以下の通り


1、日清両国は朝鮮から撤退を開始すること
2、日清両国は朝鮮に対して軍事顧問の派遣をしない、朝鮮には日清両国以外の外国から数名の軍人を招致する
3、将来朝鮮に出兵する場合は相互通知を行い、派兵後をすみやかに撤退し駐留しない。


しかし、清国 袁世凱は通商事務全権委員としてソウルに残り、中国人街を形成し、朝鮮人商人を圧迫していた。


1894年 東学党の乱 朝鮮で減税を訴えた 農民 東学党が内乱を起こす 


内情
壬午事変や甲申事変 以降も
閔氏政権化 腐敗と 両班(官僚)たちの 賄賂や不正収奪の横行は止まらず、閔氏自らの手で改革を行うことは出来ず、そのつけは重税となり一般民に振られ、民衆の不満は高まり甲午農民事変に発展する…この農民たちの武力奮起に政権軍は太刀打ち出来ず、清国へ援軍を要請、結果
天津条約の相互通知により、日清両国が朝鮮出兵することになり…日本は公使館警護と在留邦人保護の名目で派兵し、清国軍と対峙することになります…。


こんな感じで…
 もともとは朝鮮内乱の鎮圧を朝鮮政府は清に援軍を頼むところから この戦争の起因が起きたようです。日本にとって 朝鮮半島がロシアなどの強い国に勢力を強いられることを警戒 当時は隣国が襲われたら 次は日本…そんな考え方だったのでしょう
 清が朝鮮に影響力を強めると 日本にとっての危機と考えたのかも知れません。ならば、清を叩いて朝鮮政府へ影響力を与える… 今のようにミサイルが有るわけでもなく、隣に強国が攻めてくれば、 
「オイもう隣の家が燃えてるよ、うちは大丈夫かよ」って そんな感じだったのでしょうか…。
 国力としては 清の方が遥かに上ですが アジアにおいて 欧米方法で近代化を進めてきた日本だけにあっさりと勝利 … 戦争期間 3か月 

下関条約…清との間で交わす内容

朝鮮半島の独立 ( 朝鮮半島は清の支配下であったということですね) ここで大韓帝国という国名になり独立宣言をします…。
日清通商航海条約を結ぶ
(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせる)
清は朝鮮半島の横にある遼東半島と台湾を譲り渡し 当時 日本の国家予算の2倍の賠償金を支払う…。日本にとって台湾は初の植民地だと考えられます…。しかし、台湾はかなりの抵抗をしているようです。台湾での日本軍戦死者2000人 日本は軍の統治から政治的統治に切り替え近代化政策を気長に打ち出すことで少しずつ鎮静化していきます…。


 ロシアにとっても魅力のある遼東半島…ロシアはフランスとドイツを誘い 日本に返還を訴えます…。日本は遼東半島を清に返還します…。ロシアも思惑があったのでしょう…
日本は
「お前ら関係ねぇーだろ でも お金と台湾もらったからー」…と言いたかったかも…
遼東半島を返還するこにより ロシア フランス ドイツ は納得し、文句を言わなくなることにより台湾の抵抗も鎮静化してきます…。

 清が日本に敗戦したことにより、列強の国々は 中国への進出が盛んになります。
「清ってアジアの強国だと思ってたけど 日本に負けた そんなに 強くない」 
 日本が返還した遼東半島の一部も ロシアに租借され ドイツ フランス イギリス も 清の至るところを租借しだしました…。当然、清も抵抗します。当時清の実質支配者である西太后は各国へ宣戦布告…結果 日本を含むロシアや列強8か国は 鎮圧のため出兵し清は 過酷な
北京議定書を受け入れる。、
 「抵抗すれば さらに厳しい条件を 受け入れる羽目に…」 武力が強い国ほど富めるという図式です。さらに中国の半植民地化は進みます…。ここで 他国が兵を引き上げる中、ロシアだけが兵を増強し満州を実質占領し さらに南下政策を推し進めようとします。
 満州の下には朝鮮(大韓帝国)があり 隣は日本です。当時、朝鮮半島は日本防衛の生命線と考えられていました。しかし 中国に多くの租借地を持っていたイギリスも ロシアの勢力拡大に難色を示し 日本と同盟を結びます。
日英同盟ですね…。当時のイギリスは世界最強です。
 日本はロシアに対して「満州の権利は認めるが、朝鮮半島の支配は日本に…」と提案しますが、決裂。ここで 日本はロシアとの開戦を決意します…。圧倒的な国力の差があり 日本は短期決戦で叩き講和に持ち込むという作戦を立てるべく 当時 日本と友好関係であるアメリカにその根回しをします…。短期決戦での勝利は アメリカの仲裁でなんとか成功…
ポーツマス条約…ロシアと
 日本の韓国における優越権や南満州鉄道の一部、あと南樺太の譲渡などです。 
日本連合艦隊VSバルチック艦隊 旅順や203高地の話は日本でも有名ですね…。
 ロシアは負けを認めず 賠償金未払い…のままですが 日本にとって朝鮮半島へのロシアの影響力は避けられます…。
 これは今頃になって お隣の国と非常にデリケートな歴史認識問題になっております… 
そんな かんだ なんだ かんだで もめてます…
 当時 ホントの話 どうだったのでしょうか…中国が 列強国に租借され続け ロシアも迫っている中 当時の韓国の国力を考えると 日本と利害が一致しても良いと思うんですが…。 
 日清戦争も日露戦争も 自衛手段として日本にとって この朝鮮半島の存在が大きく 韓国の利権を巡っての戦争と言っても過言ではなく、そのために日本は 戦死者も含め大きな犠牲を払ってます…
 戦費に関しては日露戦争において 当時の日本の国家予算が2億5000万円に対して戦費15億円… 政治的戦略(ポーツマス条約)アメリカの仲裁がなければ…どうなっていたか分かりません…
 当時、韓国は日本の生命線…おまけに世界は列強国の中に組み込まれてつつある中 韓国の国力では 到底 ヨーロッパやロシアには太刀打ち出来ない、近代国家としての外交力を求めても不可能 だからと言って韓国が西洋の植民地になれば、次は日本が危機に迫られる。日本にとって 韓国の産業の近代化が必要不可欠であったように感じます…。

 日露戦争終戦後の 
1905年…アメリカとイギリスから韓国統治の承認を受けます。
同年…
 日本の外務省を通さない限り外交交渉が出来ないという内容で、韓国は外交権を失います。
 その時 首都ソウルに統監府という統治のための機関が置かれ、その初代統監が 初代内閣総理大臣を務めたことがある 伊藤博文ですが…。 さすがに韓国の一部はこれには黙っていなかったようです。
安重根(アンジョウグン)という韓国の青年に 伊藤博文は射殺されます…
伊藤博文は韓国併合に対して唯一反対派の大物政治家だったと言われています。
皮肉な出来事です…
この暗殺がきっかけで
1910年…日韓併合条約を結び 名前を朝鮮と改められ韓国は実質的に 日本の統治下になります…。
1911年 辛亥革命
1912年 中華民国建国 ここで清は滅亡します
 きっかけは サラエボで起きた事件です。オーストリアがサラエボを併合していたのですが サラエボでオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺され オーストリアがセルビアに宣戦布告します。アジアとの境目 バルカン半島は 肌の色 思想 宗教 様々な思惑が入り乱れた地域だけに大きな紛争になっていきます…。
 ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリなど に対して 連合国 イギリス・フランス・ロシアなどが
ヨーロッパで争った戦争です
三国協商(イギリス フランス ロシアを中心とした連合国) 
VS 
三国同盟(ドイツ オーストリア イタリアなどの同盟国)

 次々と各国が参戦していますが、それぞれの参戦国には思惑があったはずです。この頃、欧州は植民地争いの激戦区だったからです。

 さて、日本は…? 参戦しています。
日露戦争以降 日英同盟を結んでいるという大義もありますが、日本が目論んでいたのはイギリスの敵国である 中国にあるドイツ基地を攻撃するこであり、中国に出兵します。日本にとって対岸の火事であり、別に日本が参戦したからと言って 何らに影響も無く 要請があった訳でも無いはずです。
 目的は中国への勢力を強め 列強国の排除…そんな感じではないでしょうか…。
まさに陣地争いですね。

このような要求を中国へ突き付けるわけですね…。

中国政府へ日本人顧問を採用すること、
旅順、大連(韓国に近い中国の土地)の租借(借りる権利)
期間や満州鉄道の租借期間の延長が盛り込まれていました。
この21条の要求や希望なので、実際中国側に認められたのは16カ条でした。
日本の勝手で要求を 中国側に突き付けたわけですがから 中国の排日運動に繋がっていきます…。

 第一次世界大戦はヨーロッパを中心に30か国以上の国が参戦し、過去の戦争は軍隊同士の戦いでしたが、この大戦から民間人も巻き込む総力戦となっていきます。

この大戦のさなか ロシアは第一次世界大戦から戦線離脱します。理由は 貧しい国民はさらに苦しみ 戦争で余計に犠牲を強いられる中で… 
1917年 レーニンの登場により革命が勃発
皇帝を処刑し世界初の社会主義国家 ソビエト社会主義共和国連邦が成立します。
この時 日本は シベリアへ出兵します…。
翌年に
1918年 日本国内では一部の商人たちが 米を買い込み(物価が上がると見込んだ)米騒動がおきます。

 また、この大戦で様々な新兵器が登場します。特に潜水艦はドイツのみしか所有しておらず この潜水艦作戦により 中立であったアメリカにまで被害が及びアメリカは連合軍側に参戦します。
 戦況はこれで一気に連合軍側に傾き ドイツ国内において反戦運動が広まることもあり 皇帝ヴィルヘルム2世は退位…。

結果、
1918年…
連合国側の勝利で終戦を迎えます。
1919年…
パリ講和会議で 戦勝国と敗戦国の間での様々な取り決め その中で ドイツに対しての条約が 

と言われるものですが、ドイツは膨大な賠償金を支払い 海外領土の没収など 過酷で厳しい条約を結ぶことになるのです…。
日本もこの時ベルサイユ宮殿まで出向き 講和会議に参加します。
ちゃっかり
ドイツ領だった、マリアナ諸島 パラオ諸島 カロリン マーシャル諸島を手に入れます。

当時の戦争はまさに陣取り合戦(権益) 勝負で負ければ大損害 勝てば大儲け そんな風に感じるのは私だけでしょうか…大雑把な感想ですけどね…。

to be continued

























2014年8月14日木曜日

お盆の渋滞 英彦山へ逃避


お墓参りへの道のりは
大体 片道100km弱
福岡市から築上町の椎田というところまで。
いつものルートだと 福岡都市高速 篠栗 八木山バイパス 築上町 椎田
家族が居ればそんな感じです。
普通の日ですと 4輪で 2時間も掛からない…


お墓の掃除は すでに完了している。
今年は家族も 入院やらで 子供たちも祖父母のところに疎開している。

お参りだけなら 二輪で向かえば 
シャシャと済む …  
のんびりと朝無精してしまい大失敗… 発ったのは午後2時近く
早朝に発てば良かったのですが…

ちょっとした ソロプチツーのつもりが
篠栗で八木山峠入口 大渋滞 
飯塚市街地 大渋滞
田川201 は 交通量は多い…

とにかく 椎田道路に向かうまで
片側一車線の道路という道路は 大渋滞… 
すり抜け すり抜け で 左側握力低下 神経消耗 そして 暑い…。


お墓に到着した頃は ヘトヘトでした。
その後
近くのファミレスで軽食を摂り、水分補給 で 1時間程休憩…。

もう、1mたりとも 渋滞の中を走りたくない…
で、帰路は
今は もう ナビにすら案内してくれない 昔からある旧道を通り
築城基地周辺方面から一気に 向こうに見える山越えを選択

英彦山超え 経由の 飯塚 八木山 と 帰路ルートを決める
地理感がないので 適当です。


川沿いの快適な道路も終わり 山登りが始まると 
このような看板を至るところで目します。
道幅も狭い上 路面も荒れ 薄暗く ヘアピンの連続で、
所々 道路脇の岩肌から 道路中央まで 妙に発色の良い コケが生してます。
だーれも居ません それでも 渋滞よりマシです。


登坂も終わり 路面もまともになってきます…。
その昔 まだ、未舗装だった頃
オフ車で通ったことがあるような記憶がよみがえります…
時は夕刻 まして 霊場として有名な英彦山です。この日はお盆お迎えの日です。
だーれも居ません
… それでも 渋滞よりマシです。


ここは天狗の山で有名ですよね…。
天狗どころが だーれも居ません 時折 キョエーという得体のしれない鳴き声が…
それでも 渋滞よりマシです。むしろワクワクします。


英彦山神宮という神社で 夕日がとても綺麗だったので ちょっとバイクを停車
お土産屋さんがありますが、全店閉まっていました。
だーれも居ません… それでも渋滞よりマシです。


道路脇に居た野生の鹿と目が合いました それも 二頭…。
一目散に山の繁みの中に逃げていきました。


ここからは 田川に向かわず 朝倉方面に向かい 飯塚経由で帰宅…遠回りですが。

結局は 
お墓参りに向かった つもりだったのですが、
帰路はちょっとした ソロツーリングになった 日でした…。




 







2014年8月13日水曜日

お盆…先祖をお向かえするために。


お盆は 先祖をお迎えし、そして 送る日です。

現代社会では お盆返上で働いてる人たちも沢山います…。

が、

お盆休みがある人たちは

先祖に近い 実家のある場所に帰省し

それぞれの地方にある お盆独特の行事に参加します…。

国民的休日であるので 休みになる人たちは多いはずですが

仏教的行事を重んじてない 人々にとっては

単なる お盆休みということで

旅行に行ったり 遊びに行ったり 家族サービスに…等々
 休暇となるので 単なる休日になるんでしょうね…



子供の頃から お盆になると

意味も分からず お墓の掃除に 親から連れて行かれ

お迎えの日だけは 拘束されていた記憶が大きいです。

信心否定をしながら 無神論者を気取っている つもりでも

習慣とは恐ろしいものです…

お盆になれば 雨が降ろうが 猛暑で汗だくになろうが

遠い場所にある 墓地に向かい 丁寧に草をむしり

お墓の掃除をする

物心ついて 一回たりとも 欠かしたことはありません…。

先祖を敬う 日本人の心だけは忘れたくありません。


このような 習慣を 次の世代まで残し

先祖が眠る お墓を守ることは

大事なことだと 思っていますが、

次世代が
もし、キリスト教や 他宗教を信心しだしたら どうなるのだろうか…
外国で暮らし 日本を忘れてしまったらどうなるのだろう…
子供の人生です…好きにお絵かきしてもらいたい。

そんなことを 考えてしまいますし、

これから 国際化の時代です。

ただ、でさえ 欧米文化に染まった我が国なのです…。



ということで

今年も 前日 お墓の掃除を済ませました。
家にある 仏壇の扉も全開にし 
先祖が迷わないよう 灯をともしました。

今日は バイクで 先祖の眠るお墓に向かうつもりです…。


お線香と 
親父が好きだった 酒(ワンカップ)と煙草を持参して…。





2014年8月6日水曜日

1945年8月6日 原爆の日

1945年 8月 6日  午前8時過ぎ

この日は 
核兵器が世界で初めて実戦使用された日です。

69年前の今日
広島に投下された一発の爆弾
当時、広島市の人口は35万人
亡くなった人たちの数は 正確に把握されてないようですが、
終戦後 昭和20年12月末段階で 投下後の急性障害も含め
14万人の方々が犠牲になられたと聞きます。
また、その後 放射線の影響で 数多く亡くなられたであろうと思います。



この日より3日後 
8月9日 11時過ぎには長崎で 2発目の原爆投下 約5万人が犠牲になる…。

子供も赤ん坊も年寄も 関係なく灼熱の炎で焼き殺されたのです。




原爆投下側の言い分
原爆被爆側の言い分

色々ありますが、勝てば官軍
勝てば正義だという歴史上の事実しかありません。

くだらないです…。

当時
我が国に残ったのは 大国に コテンパンに叩きのめされた史実だけなのです。


昨日 某新聞社が従軍慰安婦記事において誤りがあったとの告げたそうですが、
戦時中 戦争扇動を担いだ新聞社でもあったはずです。
戦後は むしろ自国への自虐史観を植え付けてきた印象があります。
いい加減に 戦後数十年も経てば 歴史の真実は紐解かれることでしょう。

敗戦直後において 旧連合軍にとって不利な資料など公開するわけがありませんよね
日本の負の部分だけが ことさら強調され
欧米諸国の脅威となることを防ぐことしか考えていなかったことでしょう。
そもそも 無条件降伏(ポツダム宣言受諾)…戦勝国にとって煮るも焼くも自由。
下手に逆らい 口答えしても 日本の復興はあり得なかったと思います。
国民は飢え 不潔な環境の中、戦後の混乱は想像を絶していたのではないでしょうか

当時は 欧米諸国の論理と国益がすべてだったはずです。

日本国は 一刻も早く自立の道へと向かうことしか考えてなかった。
国民が飢え死にするぐらいなら 
恥を忍び 大国へのご機嫌を取る選択しか手段はなかったのではないでしょうか
今の日本国憲法など大国からクレームを受けながら ほぼ言いなりになりながら 
日本の政治家と官僚たちが 少しでも日本に有利になるよう
頭脳を駆使して作成されたものだと思います。
当時の政治家や官僚たちほど 優秀であり 我慢強く 高潔な人たちは
居なかったのではないだろうか と 勝手に想像しています。


国土も狭く 資源も無く 原爆を2発も落とされた国が
ここまで復興できたのです。

ひたすら周辺諸国に優越感を与え、
ひれ伏すように頭を下げ 大国から守ってもらい
戦後、護送船団方式という 鎧を身にまとい
インフラを整え…効率的な流通網を整備し
安価で優れたものをつくり
商売で邁進した我が国なのです…
しかし
儲かれば 貿易摩擦が起き 大国から避難を浴びせられ
政治的圧力を掛けられ
控え目にすれば、史実を押し曲げてまで
未だ戦時責任を追及してくる国も居ます…。

世界史上 類を見ない核爆弾を投下された国にも関わらず
基本的な戦後体制は変わらないのでしょうが
多くの犠牲になられた方のおかげで 今の日本があることを
私たちは忘れてはいけないと思っています。



 
原爆投下によって 犠牲になられた方々へ

合掌

…。






2014年6月9日月曜日

モンキー 近隣探索 坊主ケ滝

IPHONEで撮影したのですが…結構撮れるもんですね。
もう蛍のシーズンは終わりかけですが
この辺だと すごく沢山居たでしょうね…

家族も実家でお泊りだし、休日でもあり 昼過ぎから  
独りのんびりと モンキーで近隣を探索してみました。

山道(4輪じゃ少し無理な道)でも
モンキーだと自由自在 トコトコと渓流脇まで
降りていけます。


行き止まりなど心配せず 山中の奥に行けます。
途中ハイカーや家族連れとすれ違っても
軽く会釈をすると 会釈を返してくれます。
完全ノーマルなので 排気音も小さく…
小さな生き物に乗ってるようで、
ひんしゅくを買うこともないようです。

坊主ケ滝
脊振山系金山林道にあります。
途中モンキーを道脇の草むらの中に停め
徒歩で登りました。

周辺は福岡市内なのかと思うほど自然が豊かです…。
案内板を見てみると 高さ15m 幅6m
とても勢い良く流れ落ちているので その水しぶきが
周辺温度を下げ とても気持ち良い…
まさに マイナスイオンの宝庫だと思いました。

その昔 僧侶の修行の場だったらしく
滝壺の横に いつの時代に作らたのか不明な
石仏が数体祀られています。


何本もの枝道があるので
あちらこちらと走り回っていたら 
通行止めゲートの内側へ
その向こうには 走り慣れた三瀬旧道が…
上には三瀬ループ橋が走ってます…。
見慣れた景色も違う角度から見る 
またこれも一興です。

自宅から モンキーで3~40分でしょうか
福岡市早良区の近場スポットですが、
福岡市は繁華街と このような自然豊かな場所がとても近い
とても 良いところだと つくづく思いました。…

まだまだ、モンキーの活躍できそうなところがありそうなので
地図を見ながら 近くで普段行かない場所を
探索してみたいと思いました。






2014年6月4日水曜日

バイクで死んじゃいけない…

1日午前8時55分ごろ、佐賀市富士町関屋の広域農道で、福岡市東区○○、○○○○○○さん(45)の大型バイクが転倒して道路左側のガードレールに衝突、明石さんは胸を強く打って死亡した。
 佐賀署によると、現場は緩やかなカーブが続く道で、一緒にツーリングしていたメンバーが倒れている○○さんを見つけた。 

 佐賀NEWSPAPERより

私たちが朝駆けしていた日 すぐ付近で起きた事故です。
他人事とは思えない辛い出来事です。


その昔
公道の飛ばし屋が居た
バイクに乗ることを生業とし 厳しい訓練を受け 
それで、給料を得てる
公道のプロフェッショナルライダーだった。
勤務の無い日は その身分を明かさず
山中を走り いつも出向く峠では
最新のSSを追いかけ  旧車で間髪入れず抜く 
徹底的に訓練を受けたプロだ。
バイクにおける基礎技術や走行技術は
素人ライダーが敵う訳がないのは…不思議でも何でもない…。

 悲惨な現場を嫌というほど目にし、徹底的に訓練されたプロでさえ 
いくら 安全マージンは取っているとはいえ
私が知るだけでも 公道での転倒は数回していた。、 
プライベート用の高価なバイクも潰している
(単独クラッシュ に 多重クラッシュ それも公道で)
タイヤがどうのこうの ラインがどうのこうの
言ったところで 後の祭りだとしても
リスクに対して引けない男の性(さが)もあったはずだ…
そういう男だった。
高校時代から共にバイクで遊んでいた同級生だけに
性格は良く知っている…。
「またかぁー」 
人並み以上にチキンである私は 当時そんな風に思っていた。

 この頃 よく出向いていた この峠で
ある日 バイク事故で顔見知りが死んだ。
とても 上手く この峠の常連だった…
ここに集まる者は皆知っていた…
良く、会話も交わした。
そんな無茶な走りをするようなタイプではなかった。
いつも走り慣れている道だったはずなのに…
  
聞けば、峠の下りの直線を走行中 
対向車(4輪)の後方から追い越しをしてきた
バイク(ツーリングライダー)に接触し そのはずみで
対向の4輪車に衝突したらしい…。

即死だった。

仲間内で葬儀に参列させていただいたが
家族や身内は悲しみのどん底に突き落とされ その様子はとても痛ましく
バイクで死ぬほどバカバカしいことは無いと 心から思った

限りなく少ない確率が一致し 最悪な偶然の結果を招く
この地点を 1秒の差で通過していれば もしくは 
速度があと5k/h高ければ または低ければ…
避ける方向が 右であれば 左であれば …
この日 家に居れば…

たられば は 無い… ましてや 
時計を巻き戻すことなど出来ない

それ以来 
この峠の常連たちは ここに集まることは無くなった。

そんなことを思い出しました…。




当時 私はCB1300SFで この峠に良く出向いていました。
当時の我々は
アホみたいに 登り下りを何十回も繰り返していた…
「先日 誰々が転倒して〇〇病院に入院しているらしい」とか
情報は直ぐに伝達される いつの間にか 常連になってしまった…。


公道の飛ばし屋は フィールドを クローズド(サーキット)に移し
当時を思い出し 断言しています
「あの頃の 俺はアホだった」…と…

でも 当時 
公道でも 速い奴が偉いというような風潮が今より強かったように感じます。  
 公道というフィールドに限界を感じ 
サーキットへと主フィールドを 移すことは良くある話です。

ノリックこと阿部選手が交通事故で亡くなりましたが、
あれ程の人でも公道では避けきれなかったんですからねぇー
当然ですが
クローズドより公道には想定出来ないリスクがあり
スピードを出さなければ大丈夫とも限りません…

最低限の装備を身に着けるのは 
万が一のリスク許容を ちゃんと考えている証です…。

自分のバイクの状態 癖 性能 そして走るためのスキル
そんなことは 一番自分自身が分かっているはずです
より以上のことを求めれば 転倒や事故の確率は高くなるのは
当たり前です…

考え方は人それぞれですが
高性能なバイクも そうでないバイクも 
バイクの危険性も楽しさも
乗り手次第だということに変わりは無く
そのことを 肝に銘じることは大事なことだと思います。

バイクは 楽しいけど 危険です…当たり前のことです…
でも
バイクという乗り物は 奥が深く その奥には沢山の引き出しがあり、 
スピードを楽しむだけのものでなく…様々な用途があります。

そして 何よりも 爽快な気分にさせてくれる乗り物である
ということだけは断言いたします。…


ジャケットの下へ装着できるプロテクト
亡くなる方の大半が頭部へのダメージと言われています。
2番目に多いのが ボディー 特に胸へのダメージです。
脊髄へのダメージも深刻です。
価格やメーカーへのこだわりもあるかも知れませんが
コスパに優れたものが良いですね

【M/L】コミネ SK-697&SK-692 ボディプロテクター チェストプロテクター&バックプロテクターセットKOMINE 04-697 CE Multi Chest Protector & 04-692 CE Multi Back Protector Set


普段着 特にGパンの下からでも装着できる
膝のプロテクター
骨折か打撲で済むかでは大きな違いですね


【RS TAICHI】TRV059 ステルスCEニーガード STEALTH CE KNEE GUARD 膝 プロテクター ニーパッド アールエスタイチ【バイク用品】


夏などは暑いかも知れませんが
バイクに乗るのなら最低限の身だしなみだと思っています。






2014年6月2日月曜日

6月1日 よーい ドン 運動会シーズン



小学校の運動会です
(まんまの掲載はまずいので画像処理しています。)

この日のためにPTAの話し合いが何度もあり
父兄 特に母親は それぞれに担当が与えらるようです。
我が家も例外無くPTAから撮影係を仰せ付かり
その打ち合わせのため何度も足を運んでいます…。 

怪我などのリスクはかなり考慮しているようです。
例えば、この日あった
団体徒手(組み)体操など 危険という理由から
無くそうという動きもあるらしいです。

この日、私は早朝より朝駆けだったのですが、
流石に 家族身内からのひんしゅくを買うのは恐ろしいので
途中離脱させてもらいました。
余裕をもって学校に到着。

粛々と運動会行事は進行していきます。
お昼は
お手製弁当を開き、体育館屋内でいただきます。
何事もなく ソツ無く 学校行事は終了しました。

時代は常に移ろい行くものです。
驚くというほどではないのですが、
生徒たちは 体操すわりでなく 教室から椅子持参での競技待機です。
また、その椅子には水筒とリュックが引っ掛けてあります。

また、
父兄陣地取場所には テント ビーチパラソル 折りたたみテーブル クーラーボックス
キャンプグッズが多かったこと…。コテージ風のテントなどありました。
屋外は 日差しで乾燥した土ほこり が凄いので
我が家は 解放された体育館で弁当を開きました…。 

競技内容も 
ダンス系が多く含まれており
男子女子混合で
チアガールが持つようなボンボンを持っての
BGM付きのダンスなどもありました。
そのBGMが 古いこと … 
おそらく生徒たちはその曲を知らないことでしょう。 
リレーは選抜でなく全員参加ですので、
遅い子 速い子 を 上手くシフトする苦労あるようですね
上級生による 応援合戦などもあり ぎこちないのですが
これは良かったですね 

それなりに 運動会の雰囲気を楽しむこと出来たので
良しですね…。




 

2014年5月24日土曜日

バイクと若年層と免許取得 の歴史




4輪ですら若年層は購入しなくなってることをよく聞きます。
高速道路のSAなどで休憩していても
独身らしき若者は少なく家族連ればかりです。
バイクに至っては ヘルメットを脱げば
中高年の人々がほとんどような気もします…
ま、私もその中の一人ですが…。

その昔 大型自動二輪取得は 
直接試験場で学科と実技試験を受ける
それが普通でした。
私が取得したころ
原付(学科のみ)50cc未満→小型125cc未満→大型 すべての排気量
ほとんどの人たちは原付を取得し 
次は大型取得を目指すというパターンが多く
その間
合格するまで 試験場に足を運ぶのですが、
取得出来るという保障はありませんでした。
但し、頑張れば
大型二輪の免許取得費用など
高校生でも 
ちょっと小遣いを貯めれば可能でしたし、
すでに社会の土俵に上がっている同世代も今より居ました。
バイクは買えなくても 取りあえず
すべてのバイクが乗れる大型自動二輪を取得しようという
受験者も多かったはずです。
実技試験の難易度は
私たちの地域で50人位受けにきて
合格者は 多い日でも2~4人ぐらいだったでしょうか
当然合格者無しの日もあります。
普段乗る機会のない大型バイクに乗るわけですから
試験場を練習の場にし、試験コース内の
坂道発進 ブレーキ、一本橋 すべてのポイントを走りきりたい
そんな 受験者たちばかりです。
それでも 順番を待ちに待ち
試験開始からバイクに跨った時点で 「はい、降りてこい」
発進し、走り出した時点で 「はい、戻って来い」 は多かったです。
試験官(採点者)は 実技試験が始まる前
受験者全員をいちべつし
「朝からご苦労様、本日は全員落とすからな」 でしたね

その翌年ぐらいに
 事故があまりにも多いという理由で 
大型自動二輪免許取得の超難関時代がやってきます。
中型(400cc)限定というセクションを 突破(限定解除)しないと
大型自動二輪免許は取得できなくなります。
そして、今のように公認の教習所による実技試験でなく
 即試験場での一発試験のみの道しかなく
その合格率は悲惨なもので
合格するまで10回 15回ぐらいはざらであり
50人試験を受け 本日の合格者0
そんな状況も多かったのではないでしょうか…
取得出来ない者は一生取得出来ないとまで言われていました。
この時期 限定免許で妥協した人たちも少なくなかったはずです。
とんでもなく高嶺の花にもかかわらず
この難関にチャレンジする若者たちが
後を絶たなかったのは バイクブームという
時代背景があったのかも知れませんが…。
それだけでは無いような気がします。
この超難関を突破し 大型自動二輪免許証を手に入れることは
バイク乗りにとって大きなステータスだったことも 理由のひとつだったはずです。
今のように お金を幾ら積んでも手に入らない訳ですから…。


つまり、その昔 バイクという乗り物は
排気量の大少はあっても 実用車(配達など仕事用)以外
二つのタイヤにエンジンが搭載された
未成熟なハナタレ小僧たちのオモチャだったわけで、
少年たちの憧れであり、一度はバイクに乗りたい
そんな思いが強かった時代でもあり
二輪免許は
小僧でも 頑張れば取得できる 国家資格でもあったわけです。
私も その当時のハナタレ小僧のひとりだったんですけどね…。

同時に

2年も経てば 大半の小僧たちは
バイクから4輪へと興味が移行し、
バイクは卒業という大人の階段を上っていく訳です。
仮にバイクに乗り続けていたとしても
結婚し子供が生まれ 日常の自由な時間が
家族や仕事へと比重が移り 
バイクは車庫の隅っこでオブジェと化し、
手放していきます。

今、
バイクを購入したり走ったりしている中高年ライダーは
過去に そんなハナタレ坊主から大人の階段を経験した
リターンライダーたちも多いはずです。




とうとう、大型自二免許取得制度に関して
海外からクレームが入ります…。
大型バイクが主戦力のドイツ様やアメリカ様が
「オレッちの二輪が日本で売れんのは
超難しい免許制度のせいやー」
こんなとこでしょうか
事実 この頃 日本メーカーは中型バイクに
開発をシフトし400cc未満車種の豊富さと
その高性能さは目を見張るものがありました。
高価なパーツを使用し 手は抜いていなかったように
思います。250クラスDOHC4マルチエンジンなど 日本以外
どこの国が作れるでしょうか

そして 
1996年 ついに
海外の圧力により規制緩和が実施されます。
大型自動二輪免許取得が簡単になっていくのです
公認された教習所による学科と実技教習を受ければ
ほぼ免許取得できるという訳です。
但し、凄くお金が掛かります。
言い変えれば お金さえあれば ほぼ誰でも いつでも取得出来る…

超難関時代に取得した人にとっては面白くなかったかも知れませんね
大型自動二輪免許の価値は むしろ 安くなったと言っても良いでしょう。
 
そして 
16→18歳からという年齢制限となれば 
やはり4輪免許取得が優先されるのは否めませんね
また
国内仕様のバイクは様々な規制に縛られ
本来の性能は抑えられています。
スペックを重要視しないユーザーですら
購入意欲を削ぐ材料となります。
そして
ヘルメット グローブ ウェアー ブーツ等
バイクに乗るための装備を揃えるだけでも
 若い人たちにとって一苦労です。
夏は暑く 冬は寒い 雨の日は濡れる
バイクが高性能になればなるほど維持に労し
事故のリスクも大きくなっていきます。
少年期バイクに触れる機会の少なかった若者にとって
バイクに対し何も魅力無く感じるのは仕方の無いことではないでしょうか…。

無駄を省き効率良くやらないと
生きていけないような社会だけに

若者たちにとって
人生も効率良く謳歌したいと思うのは当たり前であり 
仮にバイクに興味があったところで
そんな非効率なものに お金は掛けたくないという
のが本音ではないでしょうか…

でも、
今、バイクを所有し走ってる若者たちも居ます 
それが少数派であっても
世代の違いはあっても

そんな若者へ
「バイクに乗る理由は?」…なーんて聞くのは 

愚問であるということはだけは…
いつの時代も変わらないはずです。