2014年8月25日月曜日

日本の戦争を少しだけ遡る…列強の世界 Ⅳ

 最近の話題のひとつに 集団的自衛権を認めれば 戦争の抑止となる。もしくは否かなどTVで議論されていますが、このような議論をする人たちは 日本が戦争に巻き込まれる可能性が どこまであるのか考えているのでしょうか… とても興味があるところです。
 太平洋戦争後 小さな紛争は世界各地で起きていることを忘れてはいけないように思います。過去の戦争は 小さな紛争から 事態は大きくなっているような気がしてなりません…今は トリガー(引き金)を指一本で引ける近代戦です…。

我が国の太平洋戦争前を さらにしつこく 日本以外の列強国を含め探ってみたくなりました。
 … 日本が一方的に 満州事変以降 進軍し 満州国を建国させ溥儀を皇帝にし 中国の反感を買うという どうも 日本だけが戦争に突き進んでいるような印象が強いのですが…実際そうなんですけどね…。しかし、戦争というものは 終結段階で 賠償金なり 領土の返還なり 負けた方がそれなりの代償を被ってきたわけであり そこで条約という 当時の国際法が存在していた訳です… 
…そこで

 他の国はどうなの?ってことです…

ならば アメリカは?ロシアは?イギリスは? 中国は?

ちと、さらに しつこく…  日清戦争直前から… おさらいを兼ねて 

 さらに それ以前となれば 日本は鎖国状態ですし  西欧米国は 侵略 搾取型植民地政策のオンパレードですし 帝国主義が世界中を席巻しその中に巻き込まれる国は多数あったはずです…。
 1842年…南京条約…イギリスと清国の阿片戦争終結に向かう講和条約です…。この戦争 イギリスの勝利ということなのですが、清が気の毒のように感じます…。そもそも清とイギリスのお茶の貿易が イギリスにとって赤字だったということから始まります。イギリスは この赤字の穴埋めのため インドで阿片を栽培し清へ輸出するわけです。… どう考えても阿片はまともな商品ではありません…。清は様々な方法で阿片の受け入れを拒否するわけなのですが、イギリスは自由貿易と開国をタテに戦争にもちこんでいくという訳です…。
 南京条約で イギリスは 清から香港を割譲(この時は永久) 賠償金 あとは清に主要港の開港をさせます。  
 他の列強国も
1845年…マカオはポルトガルの植民地へ
1894年…日清戦争 日本も賠償金と台湾と遼東半島の割譲を受ける(後 三国干渉で遼東半島返還)
1898年…香港領域拡大協約においてイギリスへの租借を99年間とする。(1997年返還しています) まぁー 清の時代の約束を守ったということですね。
1900年…義和団の乱 清西太后が列強8国に宣戦布告 以降 ロシアは満州に居座る
1901年…北京議定書 清朝と列強8か国 仲裁も列強国 莫大な賠償金は分割払い
1903年…パナマ運河条約 11月にパナマがコロンビアから独立 コロンビア自体がスペインから独立した国なのですが、パナマ運河建設をコロンビアに拒否されたアメリカがパナマを保護国として独立させ、パナマ運河地帯幅16Kmの主権をアメリカは獲得します…。当時 コロンビアではパナマ地帯の独立派が居たということもあり コロンビアはアメリカの圧力に屈したということです…。

 この頃、他の列強国も植民地獲得で忙しかったということ…。そんな時代だったのでしょう。

ドイツは 
ベルリン ビザンティーム バクダートを結ぶ地域を勢力下にし 中国へと進出する3B政策

イギリスは…カイロ ケープタウン カルカッタを結ぶ3C政策…ドイツと対立

フランスは…モロッコを

オランダは…インドネシアを獲得

ロシアは…南下政策で奉天を占領  その頃 日本も満州大陸への進出を強めていた。

1904年…日露戦争
1905年…9月ポーツマス条約(日露戦争の講和条約) 
1911年…辛亥革命 翌年 中華民国 建国 …但し 一国多政府という乱世の地域

1912年…清の溥儀皇帝の退位 当時溥儀6歳 溥儀は3歳で即位しています。 ラストエンペラーという映画にもなってますね…。
 溥儀が退位する条件を参考までに…
清朝と中華民国との間で「清室優待条件」という約束が締結されます。これは退位と引き換えに溥儀が紫禁城に居住し、中華民国政府が清朝の皇室に対しお金を払い 清朝の陵墓を永遠に保護するというような内容…なのですが、後に中華民国 国民党の軍が清東陵の墓室を破壊し略奪するという 東陵事件などが起きている…この事件により 溥儀が日本に接近するきっかけともなる…。

1914年… 6月 第一次世界大戦 始まる(サラエボ発)

1915年…アメリカは債務返済を理由に海兵隊をハイチに上陸させる…数十万人のハイチ人がキューバやドミニカへ亡命 1934年まで実質アメリカの軍政が続き 憲法などが導入された。


1915年…1月 中国へ 21箇条を要求…。 中国(中華民国)の建国から3年後です。
 この21箇条を中国へ要求したのは 日本側にも 理由がある訳で、消滅した清朝の時代からの条約を 引き継いで中華民国(中国)と締結し直す必要があるということ。…
 イギリスも清朝時代に結んだ 香港の租借条件を 引き継いだ訳ですから…中国側からすれば不当だと思う一部も居たかも知れませんが 日本側からすれば当然だと思っていたはずです。まだまだ、中国は各地に軍閥が現れかねないという群雄割拠状態で治安維持能力が無く…それにより大きな犠牲を払って得た日本の権益が脅かされていたのも事実だと思います。
 早い話 この21箇条は日本からのお願いというより 当時の建国 間もない中国にとっても 西洋列強国から自衛のため 利害が一致しても良かったはずであり、少なくとも辛亥革命によって中華民国の独立へと導いた 指導者 国父 孫文 が 中国の臨時大統領に就任した頃までは 日本と手を組み西洋の圧力を跳ね返すような考え方はあったのではないでしょうか。
 孫文は1913年から1916年まで 中国を追われ日本に亡命しています。まだまだ 中国は 第一革命に第二革命が勃発するほど不安定であり。21箇条の要求は日本側の横暴のように言われますが、中国(中華民国)の独立建国が1912年 その当時の臨時総理大臣が孫文であり それから1年もすれば 孫文は中国を追われ日本に亡命してしまうわけですから… 在華邦人の保護のための5号からなる21カ条の要求はあって然りのような気もします。 
 ちなみに 当時の中国の統率者は袁世凱です。
1915年…5月25日に 21箇条要求のうち 16箇条で締結されることになります…が
 
同年
1915年…6月には「懲弁国賊条例」なるものが中国で発布されるのです。
  これは 日本に対しては 日本人の居住を認めるような条約を締結しておきながら 中国内においては…「日本人に土地を貸したものは 問答無用で死刑に処す…」そんな内容であり 実質的に条例を破っていたとも言われていますが…真相のほどは?

1917年…3月 ロシア革命
1918年…ロシアは第一次世界大戦で単独講和

世界初の社会主義国が誕生するわけですが…

1919年…5月4日 5.4運動 これはベルサイユ条約の結果に不満を抱き 北京から全土に広がった抗日反帝国主義を訴えた大衆運動…大戦後、パリの講和条約で 日本はドイツの持っていた山東省の権益を そのまま引き継ぐことになります。これが国際的に承認されるということに対する反対運動です…。
 よーく考えてみると 中国も清朝の時代から 阿片戦争以来 列強国からの脅威にさらされ 帝国主義が世界中を席巻していたわけで そんな中 ロシア革命が起き アメリカも連邦議会で民族自決主義が盛り込まれた 14カ条の平和原則 を発表しています…。その内容に感化された大衆たちの間でデモが起きても仕方が無いのかも知れません。

1919年…6月26日 ベルサィユ条約 調印
 
 民族自決主義というのは 各民族が自分の好きな政治組織に属し 他民族への干渉をしないというような 民族独立的な考え方です… 但し、アメリカやイギリスの租借地(植民地)や併合地には関係無く この原則は多民族が居住しているヨーロッパへ対するルールのように思えます…。
 また このアメリカの自決主義の盛り込まれることにより 民族間の争いや 迫害の火種に成り得る要因の危惧に繋がります…。
 
 このように平和運動やら 軍縮やら 色々と 人類は平和へと願いを馳せるのですが 戦勝国が正義である以上 戦争の歴史は終わらないようです…。まだまだ 日本を取り巻く国際情勢は 様変わりし 日本もそれに翻弄されていきます…。

To be continued





 

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