2014年8月19日火曜日

 大雑把に 日本の戦争を少しだけ遡るⅡ


この頃 日本国内では 軍閥の足音が聞こえてきます…。

1932年5月15日 …五.一五事件
 海軍の青年将校たちと 民間の右翼青年たちが首相官邸に乱入し 当時の首相 犬養毅を射殺します…。 当時の政治に不満を持った 軍部の反乱…。日本は不況で 農家などの惨状なども訴えた上で 政治の大企業(財閥)癒着における汚職や腐敗に対する謀反の要素も大きい…。
その以前も 1930年 ロンドン軍縮会議に会議に参加した当時の首相 浜口幸雄 も アメリカ イギリスに対して弱腰であるという理由で 暴漢に襲われている
 農家が実家である若い将校たちも居ただろうし 当時は軍隊への入隊は志願なので 3度のメシのために入隊した若者も多かったんじゃなかろうかと … 勝手な推測ですが…。
 
1936年2月26日  …二、二六事件
 今度は 陸軍のクーデターです…。陸軍の青年将校たちは 首相官邸 警察庁 朝日新聞社  を占拠し 高橋是清大蔵大臣 斉藤実内大臣らを 殺害…。
 これは軍の派閥争いから起きた様相が大きく 二二六事件と比較すると規模が大きく1500人近い兵を率い決行されています。
 天皇の名を利用し 悪政を行う者は許せん…そんところでしょうが、結局 天皇の激怒を買い 天皇の命により鎮圧されます…。この根底には陸軍内の派閥もあり 当時 皇道派 と 統制派 に 分かれ この事件の首謀者は皇道派の20代の若い将校たちが中心でした。

 皇道派は…天皇に親政を望み 邪魔する者は 武力をもってでも排除するという考え方
 統制派は…合法的に政府に圧力を与え 自分たちの理想的な統制を図るという考え方

 結果、天皇の命によって統制派の軍部は 皇軍派を一掃します。ここから統制派が力をつけていきます…。

 この二つの事件は 共に予算緊縮による軍縮 も 含め 農村地域への配慮 また 財閥企業との癒着や汚職など 様々な政治に対する不満なのでしょうが、政府の対応が微妙に違います。

 五一五事件も 二二六事件も 当時の日本は大不況だった背景があります。
 金融恐慌 関東大震災  おまけに アメリカからの世界大恐慌に日本も巻き込まれ、どうしようもないデフレに陥っていたようです。
 昭和三陸地震、冷害 東北地方の酷い惨状のなか 農村地域では生きてゆくための手段として、若い女性の売り飛ばすということは当たり前であり。 それでも欠食児童が増え 江戸時代の4大飢饉に匹敵するほどとも言われています。

 輸出等の経済対策により一度は経済は持ち直すものの いち抜け政策に欧米市場からやっかみを買い追い出され、仕方なく 台湾や満州などの 身内で貿易を始め 経済が回復するには これからという矢先でした。
 さらに軍にとって面白くないのは 軍事予算を減らされることでした。

 第一次大戦によりヨーロッパ諸国は
「皆で軍隊減らせば 戦争は起こらない…」そんな風潮に変わってきました。

 日英同盟により 戦勝国イギリス側に付いている日本にとって 海軍の国際会議に参加せざる負えず、当然 海軍は憤慨します。ここで面白いのは当初 軍縮を決定した当時の総理大臣は 選挙でぼろ負けし、後釜に犬養毅が総理大臣に受任しているので 殺害された犬養毅は関係ないように思われます…。 が 
いずれにせよ 世論も政治には不満があったように思われます。

五一五事件の場合
 決行総員は少なく 若い海軍将校がほとんどであり 決行総員も少なく どちらかというとテロ的要素が強い事件でした。経緯を知った世論は同情し、助命嘆願運動が起きるほどで、…

 誰一人処刑されず。すぐに恩赦で釈放されています…。


さて、それから4年後 
二二六事件が起きます… 
 同じ軍人の決行でも 五一五事件とは少し様相が違います…

天皇陛下は お怒りになります…。





 To be continued









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