2014年8月17日日曜日

終戦記念日 も過ぎ …日本の戦争を少しだけ遡る Ⅰ

よく、太平洋戦争のワンフレーズだけで 戦争が語られ
ある時は自虐史観となり ある時は戦争賛美ともなる…
それぞれの国の言い分もあるはずです…。
おさらいですが、おおまかに 明治以降 日本の戦争を振り返ります…。
原爆を2発も落とされ 完膚なきまで叩きのめされた敗戦までの
大きな布石が いくつもあるはずです。…。



1894年…日清戦争までの経緯



1882年 壬午軍乱(朝鮮事変) 清の従属国であった朝鮮は日本から軍事顧問を招いて改革を試みるも 親清派のクーデターにより 日本公使館が襲撃され 日本の軍事顧問が殺害されます。
 


内情は


守旧派の大院君(高宗の父)=大事党 
VS 
改革派の閔妃(高宗の妻)=開化党日本


当時の李朝は国益のことは考えず派閥抗争しか考えていなかったのでしょうか コロコロと組む相手が替わっていることが伺えます…。


軍隊の近代化を日本に見習おうとした開化派なのですが、


閔妃一派は腐敗しており、内部反乱が起こるわけです。そのことを利用し対立していた大院君が閔妃一族と多数の日本軍事顧問を殺害します。この段階で大院君の謀反は成功したかのように見えますが、今度は閔妃が清国の袁世凱にすり寄り反乱鎮圧を理由に清国軍が派遣され、大院君は閔妃に売られ幽閉されることになります…。 この時 この事件の事後処理として 日本との間で済物浦条約が結ばれ、李朝では、軍事 外交 とも 清の顧問が置かれ されに属国化していくことになります。


1884年 甲申事変 朝鮮は日本の明治維新を模範とし改革を独立派が日本からの支援を受けようとするのですが、清が鎮圧します。


内情
壬午軍乱(朝鮮事変)によって 李王朝は清の属国化が進んでいくことになるのですが、壬午事変により亡命していた金玉均(キンギョクキン)らが福沢諭吉 後藤象二郎 などの支援を受け 高宗を取り込み クーデターを起こします。閔妃一族の 悪貨乱発や神託政治 など腐敗した政策に加え、実権がまったくなかった 高宗は同意することになるわけです。当時 清国はベトナムでフランス軍と戦争中でもあり、日本の援助による立憲君主制度の確立と 維新と近代化を目指した 開化派は1884年12月4日にクーデターを起こし、成功したかのように見えたのですが、ベトナムでフランスに敗戦した清国は 朝鮮まで失うわけにはいかず、袁世凱率いる清軍を送り込み 3日で開化派の内乱を鎮圧します… 開化派は 再び 日本に亡命しますが、多くは金玉均も含め 一族もろとも処刑されます。


1885年 天津条約 日本側全権の伊藤博文と清国側全権 李鴻章(朝鮮)との間で条約を結ぶ…


内情
壬午事変や甲申事変などで 朝鮮半島を巡って 清国と日本が争うことは両国にとって得策ではないと判断…。
天津条約の要点は以下の通り


1、日清両国は朝鮮から撤退を開始すること
2、日清両国は朝鮮に対して軍事顧問の派遣をしない、朝鮮には日清両国以外の外国から数名の軍人を招致する
3、将来朝鮮に出兵する場合は相互通知を行い、派兵後をすみやかに撤退し駐留しない。


しかし、清国 袁世凱は通商事務全権委員としてソウルに残り、中国人街を形成し、朝鮮人商人を圧迫していた。


1894年 東学党の乱 朝鮮で減税を訴えた 農民 東学党が内乱を起こす 


内情
壬午事変や甲申事変 以降も
閔氏政権化 腐敗と 両班(官僚)たちの 賄賂や不正収奪の横行は止まらず、閔氏自らの手で改革を行うことは出来ず、そのつけは重税となり一般民に振られ、民衆の不満は高まり甲午農民事変に発展する…この農民たちの武力奮起に政権軍は太刀打ち出来ず、清国へ援軍を要請、結果
天津条約の相互通知により、日清両国が朝鮮出兵することになり…日本は公使館警護と在留邦人保護の名目で派兵し、清国軍と対峙することになります…。


こんな感じで…
 もともとは朝鮮内乱の鎮圧を朝鮮政府は清に援軍を頼むところから この戦争の起因が起きたようです。日本にとって 朝鮮半島がロシアなどの強い国に勢力を強いられることを警戒 当時は隣国が襲われたら 次は日本…そんな考え方だったのでしょう
 清が朝鮮に影響力を強めると 日本にとっての危機と考えたのかも知れません。ならば、清を叩いて朝鮮政府へ影響力を与える… 今のようにミサイルが有るわけでもなく、隣に強国が攻めてくれば、 
「オイもう隣の家が燃えてるよ、うちは大丈夫かよ」って そんな感じだったのでしょうか…。
 国力としては 清の方が遥かに上ですが アジアにおいて 欧米方法で近代化を進めてきた日本だけにあっさりと勝利 … 戦争期間 3か月 

下関条約…清との間で交わす内容

朝鮮半島の独立 ( 朝鮮半島は清の支配下であったということですね) ここで大韓帝国という国名になり独立宣言をします…。
日清通商航海条約を結ぶ
(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせる)
清は朝鮮半島の横にある遼東半島と台湾を譲り渡し 当時 日本の国家予算の2倍の賠償金を支払う…。日本にとって台湾は初の植民地だと考えられます…。しかし、台湾はかなりの抵抗をしているようです。台湾での日本軍戦死者2000人 日本は軍の統治から政治的統治に切り替え近代化政策を気長に打ち出すことで少しずつ鎮静化していきます…。


 ロシアにとっても魅力のある遼東半島…ロシアはフランスとドイツを誘い 日本に返還を訴えます…。日本は遼東半島を清に返還します…。ロシアも思惑があったのでしょう…
日本は
「お前ら関係ねぇーだろ でも お金と台湾もらったからー」…と言いたかったかも…
遼東半島を返還するこにより ロシア フランス ドイツ は納得し、文句を言わなくなることにより台湾の抵抗も鎮静化してきます…。

 清が日本に敗戦したことにより、列強の国々は 中国への進出が盛んになります。
「清ってアジアの強国だと思ってたけど 日本に負けた そんなに 強くない」 
 日本が返還した遼東半島の一部も ロシアに租借され ドイツ フランス イギリス も 清の至るところを租借しだしました…。当然、清も抵抗します。当時清の実質支配者である西太后は各国へ宣戦布告…結果 日本を含むロシアや列強8か国は 鎮圧のため出兵し清は 過酷な
北京議定書を受け入れる。、
 「抵抗すれば さらに厳しい条件を 受け入れる羽目に…」 武力が強い国ほど富めるという図式です。さらに中国の半植民地化は進みます…。ここで 他国が兵を引き上げる中、ロシアだけが兵を増強し満州を実質占領し さらに南下政策を推し進めようとします。
 満州の下には朝鮮(大韓帝国)があり 隣は日本です。当時、朝鮮半島は日本防衛の生命線と考えられていました。しかし 中国に多くの租借地を持っていたイギリスも ロシアの勢力拡大に難色を示し 日本と同盟を結びます。
日英同盟ですね…。当時のイギリスは世界最強です。
 日本はロシアに対して「満州の権利は認めるが、朝鮮半島の支配は日本に…」と提案しますが、決裂。ここで 日本はロシアとの開戦を決意します…。圧倒的な国力の差があり 日本は短期決戦で叩き講和に持ち込むという作戦を立てるべく 当時 日本と友好関係であるアメリカにその根回しをします…。短期決戦での勝利は アメリカの仲裁でなんとか成功…
ポーツマス条約…ロシアと
 日本の韓国における優越権や南満州鉄道の一部、あと南樺太の譲渡などです。 
日本連合艦隊VSバルチック艦隊 旅順や203高地の話は日本でも有名ですね…。
 ロシアは負けを認めず 賠償金未払い…のままですが 日本にとって朝鮮半島へのロシアの影響力は避けられます…。
 これは今頃になって お隣の国と非常にデリケートな歴史認識問題になっております… 
そんな かんだ なんだ かんだで もめてます…
 当時 ホントの話 どうだったのでしょうか…中国が 列強国に租借され続け ロシアも迫っている中 当時の韓国の国力を考えると 日本と利害が一致しても良いと思うんですが…。 
 日清戦争も日露戦争も 自衛手段として日本にとって この朝鮮半島の存在が大きく 韓国の利権を巡っての戦争と言っても過言ではなく、そのために日本は 戦死者も含め大きな犠牲を払ってます…
 戦費に関しては日露戦争において 当時の日本の国家予算が2億5000万円に対して戦費15億円… 政治的戦略(ポーツマス条約)アメリカの仲裁がなければ…どうなっていたか分かりません…
 当時、韓国は日本の生命線…おまけに世界は列強国の中に組み込まれてつつある中 韓国の国力では 到底 ヨーロッパやロシアには太刀打ち出来ない、近代国家としての外交力を求めても不可能 だからと言って韓国が西洋の植民地になれば、次は日本が危機に迫られる。日本にとって 韓国の産業の近代化が必要不可欠であったように感じます…。

 日露戦争終戦後の 
1905年…アメリカとイギリスから韓国統治の承認を受けます。
同年…
 日本の外務省を通さない限り外交交渉が出来ないという内容で、韓国は外交権を失います。
 その時 首都ソウルに統監府という統治のための機関が置かれ、その初代統監が 初代内閣総理大臣を務めたことがある 伊藤博文ですが…。 さすがに韓国の一部はこれには黙っていなかったようです。
安重根(アンジョウグン)という韓国の青年に 伊藤博文は射殺されます…
伊藤博文は韓国併合に対して唯一反対派の大物政治家だったと言われています。
皮肉な出来事です…
この暗殺がきっかけで
1910年…日韓併合条約を結び 名前を朝鮮と改められ韓国は実質的に 日本の統治下になります…。
1911年 辛亥革命
1912年 中華民国建国 ここで清は滅亡します
 きっかけは サラエボで起きた事件です。オーストリアがサラエボを併合していたのですが サラエボでオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺され オーストリアがセルビアに宣戦布告します。アジアとの境目 バルカン半島は 肌の色 思想 宗教 様々な思惑が入り乱れた地域だけに大きな紛争になっていきます…。
 ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリなど に対して 連合国 イギリス・フランス・ロシアなどが
ヨーロッパで争った戦争です
三国協商(イギリス フランス ロシアを中心とした連合国) 
VS 
三国同盟(ドイツ オーストリア イタリアなどの同盟国)

 次々と各国が参戦していますが、それぞれの参戦国には思惑があったはずです。この頃、欧州は植民地争いの激戦区だったからです。

 さて、日本は…? 参戦しています。
日露戦争以降 日英同盟を結んでいるという大義もありますが、日本が目論んでいたのはイギリスの敵国である 中国にあるドイツ基地を攻撃するこであり、中国に出兵します。日本にとって対岸の火事であり、別に日本が参戦したからと言って 何らに影響も無く 要請があった訳でも無いはずです。
 目的は中国への勢力を強め 列強国の排除…そんな感じではないでしょうか…。
まさに陣地争いですね。

このような要求を中国へ突き付けるわけですね…。

中国政府へ日本人顧問を採用すること、
旅順、大連(韓国に近い中国の土地)の租借(借りる権利)
期間や満州鉄道の租借期間の延長が盛り込まれていました。
この21条の要求や希望なので、実際中国側に認められたのは16カ条でした。
日本の勝手で要求を 中国側に突き付けたわけですがから 中国の排日運動に繋がっていきます…。

 第一次世界大戦はヨーロッパを中心に30か国以上の国が参戦し、過去の戦争は軍隊同士の戦いでしたが、この大戦から民間人も巻き込む総力戦となっていきます。

この大戦のさなか ロシアは第一次世界大戦から戦線離脱します。理由は 貧しい国民はさらに苦しみ 戦争で余計に犠牲を強いられる中で… 
1917年 レーニンの登場により革命が勃発
皇帝を処刑し世界初の社会主義国家 ソビエト社会主義共和国連邦が成立します。
この時 日本は シベリアへ出兵します…。
翌年に
1918年 日本国内では一部の商人たちが 米を買い込み(物価が上がると見込んだ)米騒動がおきます。

 また、この大戦で様々な新兵器が登場します。特に潜水艦はドイツのみしか所有しておらず この潜水艦作戦により 中立であったアメリカにまで被害が及びアメリカは連合軍側に参戦します。
 戦況はこれで一気に連合軍側に傾き ドイツ国内において反戦運動が広まることもあり 皇帝ヴィルヘルム2世は退位…。

結果、
1918年…
連合国側の勝利で終戦を迎えます。
1919年…
パリ講和会議で 戦勝国と敗戦国の間での様々な取り決め その中で ドイツに対しての条約が 

と言われるものですが、ドイツは膨大な賠償金を支払い 海外領土の没収など 過酷で厳しい条約を結ぶことになるのです…。
日本もこの時ベルサイユ宮殿まで出向き 講和会議に参加します。
ちゃっかり
ドイツ領だった、マリアナ諸島 パラオ諸島 カロリン マーシャル諸島を手に入れます。

当時の戦争はまさに陣取り合戦(権益) 勝負で負ければ大損害 勝てば大儲け そんな風に感じるのは私だけでしょうか…大雑把な感想ですけどね…。

to be continued

























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