2014年9月15日月曜日

日本の戦争を遡る 日中戦争 北支事変 または支那事変 Ⅴ 

 日本は 森と水の国です…それだけでも十分な資源と言えます。
人々も 自然界の営みに合わせ 季節と共生しながら生活しています。
 個人的には 年度が変わる桜の季節は大好きです…
「花は桜木 人は武士」 有名な言葉ですね… 
美しさの絶頂で迎える見事な 散り際…日本人の精神論にまで結びついた言葉です…。

 我が国日本の近代史において是非はあるでしょうが それを直視し、祖国に誇りを持ちたいものです…。しかし、この祖国愛が 時として国同士の争いに繋がっていくことも事実です…
 近代史で一部の年号と拾い上げたような出来事だけでは、一連の流れなど把握出来ないだろうし…自虐史を作成しようという思惑であれば負の部分だけを取り上げれば簡単なことであり、…また、戦争における美談だけを拾い上げ それを賛美することも滑稽に感じます。歴史を信用していると言えば嘘になりますが、その時々の参考文献や所見に その主要人物の言葉などを照らし合わせれば 当時の状況のほんの一部ぐらいは想像できるかも知れません。

1921~22年…日英同盟破棄(ワシントン会議) 代わりに英日米仏4か国協定締結
1922年…9ヶ国条約
1922年…ソビエト連邦設立 スターリンソ連共産党書記長就任
1922年…日本共産党設立
1923年…関東大震災
1924年…アメリカでは排日移民法    参考 オレンジ計画 
1924年…北京政変
1924年…11月24日モンゴル人民共和国がソ連に続く社会主義国家とし独立
1925年…治安維持法公布普通選挙制定 中国では孫文死去
1926年…12月25日 大正天皇崩御 昭和天皇即位  中国では国民党軍の北伐開始 

1927年…日本では…
4月…田中義一内閣発足、5月第一次山東出兵…
11月…蒋 田中会談…国民党政府蒋介石は来日し 田中・蒋会談が行われる(蒋介石も田中義一も共産党駆逐で利害は一致(日本は共産革命による皇室廃止という事態を恐れた 蒋介石もソ連の勢力を恐れ記者会見で「両国の一致により東亜の平和に努力するために まずは支那国民革命の完成を図り…云々…云々…共存共栄の持論ははじめて実現される…云々…」 と述べている。)

1927年…中国では…
1月…にイギリス租界奮取事件…漢口には日本 イギリス フランスの租界地があった。
2月…武漢政府樹立、3月南京事件 
4月…上海クーデター
同じく4月南京政府樹立、…南京国民政府
同じく4月漢口事件
7月国共合作終了、ここから農民 貧困層の共産党と インテリ ブルジョア層の国民党の争い始まる
12月国民党政府はソ連に国交断絶通告… 
蒋介石国民党はこの頃 国民党内部に入り込んだ共産党の排斥に全力を注ぐ…。

1928年…日本では…第二次山東出兵

1928年…中国では…
4月…日本から帰国した蒋介石は国民革命軍総司令として北伐再開…
5月…済南事件 …
前年南京事件の件もあり 日本も北伐に合わせ第二次山東出兵させ居留民保護の体制を整えるものの…蒋介石の要請を信じ防御陣営を解除したところ、蒋介石北伐軍の一部による居留民(日本人)への残虐な殺害事件が起き、周辺各地で略奪まで含むと被害者は400人にも上った。日本軍は12時間の期限付きで北伐軍責任者の処刑と 北伐軍の撤兵を要求するが、北伐軍は応じず…。日本山東派遣軍は攻撃開始から済南城を占拠…。当時の中国軍閥は馬賊や盗賊出身の寄せ集めであり 国際法尊守、軍律厳守など徹底されておらず…便衣兵による攻撃に日本軍は手を焼く…当然 便衣兵のような民間人の姿をし、民間人に紛れ攻撃することは国際法では禁止条項の一つだった。

ロンドンのデイリーテレグラフ 「中国人は略奪と殺人を天与の権利であるが如く繰り返している」「日本人の忍耐にも限界がある」「日本軍の行動は正当防衛」と論じている
フランスやアメリカの新聞 中国の外字紙も 北伐軍に問題があったとしている。
おおむね、当時の国際世論は日本に対して好意的であった…。

この頃あたりから、北伐は北京では終わらず、日本の生命線である満州にも及ぶのではないかという危機感が高まってくる そんな時 
翌6月に 張作霖爆殺事件が起きる。…国民党蒋介石に敗れ 奉天へ逃げる列車爆発事件 

その5日後 …
蒋介石国民党は北京に入りし北伐完了 その一方で 張作霖の息子 張学良は満州に進出し 蒋介石国民党の旗(青天白日旗)を掲げる…これは父 張作霖から受け継いだ奉天軍閥の旗 易幟(エキシ)でなかった…。つまり奉天軍閥は蒋介石国民党に従属したということになる。 いずれにせよ、これは満州大陸は中国の一部だという意思表示であり、これは日本軍と戦うという宣言とも受け取れる もともと満州大陸は万里の長城の外であり、清朝時代から日本権益が認められた大陸にも関わらず。この荒野が経済発展したことにより国民党は満州権益奮取 つまり「返せ…」と言い始める…その後 日本政治は中国との協調政策を重視する外交を試みるも 軍部をはじめ、満州の居留日本人や、日本国内においても 政治の姿勢に不満を抱き 満州事変につながっていく…。

1928年…8月27日 63ヶ国による不戦条約(パリ不戦条約ケロッグブリアン協定)

1929年…10月24日…世界大恐慌
アメリカのブロック経済に端を発し世界中が閉鎖貿易に走る(輸入品に大きな関税を掛け各自国の商品の保護に走る) マルクス論(共産思想)が的中したと理解するインテリ層が増え 日本の青年将校までもが 支配階級 資本家 政治家 のせいで 自分たち兵士の実家が貧しいのだと思い込み この後 五一五事件 二二六事件が起きる…。
1929年…アメリカ フランス イギリスと共同声明で不戦条約違反とソ連(中国と紛争)を非難
1930年…蒋介石国民党は共産党掃討作戦開始
1931年…6月27日 中村大尉事件
1931年…7月2日 万宝山事件
1931年…9月18日 満州事変 柳条湖事件
1932年…1月 第一次上海事変 日本海軍陸戦隊と蒋介石軍との武力衝突…3月まで戦闘は続くが5月には停戦協定成立…
1932年…満州国建立
…1934年溥儀を皇帝にします…。5民族協和政策を打ち出します。満州地域は多民族が居住しており もともとは不毛の無法地帯だったのです…。
1932年…日本では…五一五事件
政党内閣の時代は終わり…しばらく軍人か官僚出身者が首相に任命されるようになる…。
1933年…ドイツでは…1月 ヒットラー ドイツ総統に就任
1933年…2月 リットン報告書国際連盟採択
1933年…3月27日 日本国際連盟脱退
1933年…フランクリン ルーズベルト アメリカ大統領就任 … ルーズベルトは日本嫌いで有名であり、 蒋介石に莫大な支援をします…親中派なのか また この年に 何故かソ連を承認します…

 満州事変は周知の通り 関東軍が 中国軍(張学良)の仕業に見せかけた満鉄爆破事件です。 その後5カ月で満州全土を占領してしまいます…。1932年…関東軍は満州国を建立するも、中国はこれを国際連盟へ提訴。国際連盟はリットン調査団を派遣調査します…結果的に 満州国の建立は認められず 日本は国際連盟へ脱退通告するわけです… もっとも国際連盟で満州国は否認されたとはいえ、ドイツ イタリア スペイン タイ王国などの友好国 同盟国、23か国も含め それまで国境紛争を起こしていたソビエトですら不可侵を約束し公館を設置するほどで 当時の独立国60ヶ国余りの中の3分の1と国交を結び満州国は独立国として安定時代もあったようです…。

1934年…中国共産軍長征(逃避)開始…
蒋介石の共産軍掃討作戦により共産党はソ連に近い延安まで逃げ落ちる…。がその後1935年に 八.一宣言という抗日救国(協力し合い日本と戦おうという意味)宣言を打ち出す。

1933年…塘沽(タンクー)協定 …
満州事変の停戦協定…蒋介石政府(軍)との間で結ばれた協定 関税、鉄道 郵便 電信 などの協定が結ばれた…蒋介石(国民党)は中国共産党の掃討を優先し、日本軍との全面対決を避けたかった思惑が伺われます。… 日本も中国も友好関係を築こうするのですが、抗日派によりテロは続きます。

1935年…ソ連では… 1930年台後半はスターリンの大粛清時代とも言われている
第7回コミンテルン大会でスターリンが砕氷船理論の再確認をする…本当でしょうか?
砕氷船理論とは…分厚い氷を砕氷船で分け砕かせその役目を終えさせたら沈めろ…です。
 えげつない理論ですね。
ドイツでは国際連盟脱退

日本では…
1936年…1月 …ロンドン軍縮会議脱退 
2月 …二二六事件…
5月… 軍部大臣武官制度復活…陸軍大臣 海軍大臣は現役の武官でなければいけない つまり陸海軍が支持しない内閣の成立はなくなる…広田弘毅内閣が23年ぶりに復活させた制度。
日独防協定…ソ連の軍備拡大5ヶ年計画と共産党コミンテルンへの防衛策…これらが反英、反米と受け取られる…後の歴史を見れば中国もアメリカもイギリスも この共産党コミンテルンへの認識が甘かった…ということになるのか…。

1936年…西安事件…
共産党掃討に固執し、抗日に耳を閉ざしていた蒋介石(国民党)は張学良に拉致監禁される この事件により国民党は共産党と手を組み抗日共策が始まります…。

スペインでは…
1937年…4月26日 ゲルニカ空爆、フランコ将軍率いるナチスによって空爆を受ける。史上初めての無差別空爆だと言われている…犠牲者3000人(ちなみに後の東京大空襲は一夜にして10万人) いずれにしても大虐殺だと思います。 ピカソの名画 ゲルニカ は有名ですね。

1937年… 6月 近衛内閣成立

中国では…7月7日、盧溝橋事件 …当初、日本は戦線不拡大の姿勢
最初の銃撃に対して 日本軍は我慢
翌7月8日…最初の銃撃に対して日本軍我慢 2回目の銃撃(猛射)に対して応戦…
翌7月9日…停戦協議成立 7月10日…停戦に関わらず中国軍銃撃 
翌7月11日…停戦協定成立 7月13日…日本の天津砲兵隊修理班が襲撃され4名虐殺
翌7月14日…近藤2等兵惨殺 7月20日…盧溝橋城から日本軍に対して中国一斉射撃日本軍もこれに応じ盧溝橋城に対して一斉砲撃 
7月25日…廊坊事件(ろうぼうじけん)これは 廊坊の電線を修理していた日本電信隊を包囲攻撃
7月26日…公安門事件 これも北平公安門を通過中の天津駐屯日本軍に対して城壁上から乱射
7月28日…日本は戦線不拡大方針を放棄 日本軍(天津軍)は開戦を通告、全面攻撃開始
7月29日…中国軍は南へ敗走…
 ちなみに 近代では日中戦争と言われていますが、当初は北支事変 のち 支那事変と言われていました。 

 今 何かと世間を騒がしている朝日新聞ですが 当時の記事を
北支駐屯軍の演習 条約に基づく権利」(昭和12年7月10日付東京朝日新聞)
わが軍の応戦は全く自衛手段」「演習は条約上の権利」(昭和12年7月10日付大阪朝日新聞)
日本が穏健政策に立還ればすぐに図に乗ってくる、グワンとやられてやつと引込む」(昭和12年7月9日付大阪朝日新聞「天声人語」)
もともと我方から仕かけたことではなく、また仕掛けるいはれもない小ぜり合ひだ・・・向ふがひっこみさへすればそれで事態は収まるのである」(昭和12年7月10日付大阪朝日新聞「天声人語」)

7月29日…通州事件 通州で中国保安隊により日本人虐殺事件が起きる…始まりは日本の誤爆
8月9日…大山大尉虐殺事件 これは盧溝橋事件の和平工作中の事件だった。(元外交官の実業家 船津振一郎を通して蒋介石政府に和平を働きかけている最中だった) 船津和平工作
その後
第二次上海事変へと…
見解様々 歴史は戦勝国によって作られることを ひしひしと感じます。
日本としては東亜の平和と秩序を…つまり統治 それは 他の列強からの自衛手段という見解を他国へ押し付けようとしますが、相手国にとっては決してそうでは無かったということなのでしょう…。
 もう、この頃の戦争は 国力と国力の争いだけでなく、多国へ発信するプロパガンダの時代へと完全に突入した模様です…つまり情報戦だということであり 他国を巻き込むことによって 戦火は拡大していくという状況になっていきます。国の利権(国益)だけの争いよりも悲惨なのは 民族紛争であり、さらに悲惨で長期になる可能性が高い争いは 宗教を含めた思想主義の衝突だと 太古の時代から歴史が証明しています…。だから、平和のために国境線が決められたはずなのですが…。

1937年…10月 シカゴにて 隔離演説
「中立」を主張していたアメリカですが フランクリンルーズベルトはシカゴで演説をします。 要約すれば…
「世界人口の9割の平和と自由と秩序と安全の保障のための国際法は1割の人間に踏みにじられている…不幸にも世界には無秩序という病気が広がりつつある したがって その病原体を隔離しなくてはいけない」…これは ドイツや日本に対しての批判とも受け取れる内容だと言われている それはともかく 戦争への介入をほのめかす内容とも言えます。

1937年12月 … 南京攻略
12月1日…南京攻撃命令が下る 他国から避難されることを考え 無条件降伏(無防備都市宣言)を勧告をするものの、蒋介石が応じなかったため南京城に攻め込む。そして攻撃開始から3日後 あっさりと南京は陥落される…。がいち早く避難した蒋介石はすでに アメリカ イギリス ソ連の後ろ盾を得ることが出来。この後 日本と徹底抗戦の姿勢…。 

参考………………南京事件
参考………………便衣兵
参考………………督戦隊
参考………………堅壁清野(けんぺきせいや)

12月12日…パナイ号事件…日本軍のアメリカ輸送船への誤爆 たぶん根にもっていたはず。

1938年…1月16日 近衛文麿首相は近衛声明を発信
蒋介石国民党に対して和平を試みるも回答を得られず 近衛文麿は「帝国政府は国民党を相手にせず、帝国政府と真に提携するに足る新興中国(支那)政権の成立発展を願い、これと両国国交を調整し再生中国(支那)の建設を協力せんとす」 蒋介石国民党との断交宣言。

4月…国家総動員法を公布… 国民総動員体制となり、日本の自由主義は崩壊します。
国家が人的資源や物質的資源を自由に運用できることであり、国民の自由意思は認められず国家命令が経済活動を支配するということです。つまり釘一本動かすのも官僚たちの書類が必要であり、行き着くところまで行った経済統制だと思えます。
この頃は軍部の影響力が強くなる中 官僚たちの間でも右翼社会主義に傾倒し 革新官僚たちが現れ全体主義国家構想が政府を支配していきます。 
そのような革新閣僚たちが1937年10月25日に経済統制推進のために企画院を設立するわけす。そしてこの国家総動員法が翌年に企画院によって公布されるのです。
 この企画院(経済参謀みたいなもの)の生みの親は近衛文麿首相なのですが 
細川護熙 元首相のおじぃちゃんでもあるんですよねぇー…。

10月…武漢(武昌 漢口 漢陽)が日本軍によって陥落
ここで、盧溝橋事変から始まった日中の本格的な戦闘は終わり 中国各地の治安は個々の自治政府によって維持されることになると思えたのですが、今度は中国内で日本と徹底抗戦か和平かで対立、南京政府の汪兆銘 と 重慶政府の蒋介石 と 延安政府の毛沢東 で 三つ巴の対立抗争が始まります。 そこへ 日本 アメリカ ソ連 が 勢力へ加担し 内戦介入します。

11月 近衛文麿首相は2回目の声明 
東亜における(日本 中国の三国 満州)における経済統制を発信 東亜新秩序を呼びかける 日本にとって いくら出兵させても 切りが無い日中戦争の早期解決が切実な問題となり 一回目の声明を修正するのですが… この頃は世界の列強はブロック経済(自製品保護)体制状態であったので このような呼び掛けで 東亜において経済統制をしようとしたのでしょうが…
流石に 中国大陸に権益を持っている イギリス や これから権益増大を図る アメリカは 黙っちゃおりません…  


 この後 日本は日中戦争を抱えながら、アメリカと厄介なことになっていきます、当時、日本という国はアジアで唯一 列強に名を連ねるルーキーだったわけです… アジアで唯一の列強国が抱えた宿命を感じます。アジアの代表として東亜の平和と共存のため他の列強からの自衛手段としてどうしても満州大陸は生命線だという考えがあったのでしょうが…今の感覚ではちょっと計り知れないように見受けられます。

 WIKIあたりで当時の歴史を閲覧すると 色んな学説があります… どれが正しいのかなど考え得ることはできず様々な側面からの考え方があるようです。戦争で負けた側が領土とその権益を割譲した上、莫大な賠償金を支払う。それが国際法上のルールであったのは瞭然です…。現代の感覚で戦争というものを語ること自体が間違いの元のような気もします…。早い話 戦争に良いも悪いも無く、勝つことが正義なのかも知れません…そのために 沢山の犠牲を払わなければいけないということです…。

 独断と偏見ですが 栄枯盛衰 いつかはどんなに栄えた国も終焉が来るのでしょうか。
 栄華を極め 広大な土地を統率し最盛期には周辺隣国から最強と言われた 清の衰退は日清戦争以前から始まっていたのです。我が国日本も開国し 侍の文化を捨て 刀から鉄砲 ちょんまげを落とし7.3分けに、西欧文化を取り入れ近代化の道を選択したわけです。まだまだ清朝では弁髪を首に巻きつけ青竜刀を振り回していたのではないでしょうか 近代武装をした西欧の列強に敵う訳もなく阿片戦争敗北、日清戦争も3か月余りで敗北、義和団の乱にて列強8国に宣戦布告するものの敗北 その都度 相手国に有利な条約を結び、莫大な賠償金をむしり取られていくわけです。そりゃー 国を憂う資本家やら知識人やら愛国者は黙っておれなかったでしょう…。
 「この国は他国の植民地になってしまう」 「冗談じゃない」 「清朝政府はダメだ」… 日本で近代教育を受けた 孫中山こと孫文が指導者となり打倒清朝を掲げ 辛亥革命 が始まるわけです。翌年 中華民国政府を仮設立し、臨時総統に孫文が任命されるのですが…あくまでもこれは暫定政府であり、まだまだ清朝の残党たちはゴチャゴチャ残り一国多政府状態だったのです。 
 清朝で最強だった袁世凱(えんせいがい)率いる北洋軍に孫文率いる革命軍討伐の命が下ります。孫文…「困った」…なぜなら 革命軍は素人、相手はプロです。敵う訳がありません。やむなく 孫文は 清朝から中華民国政府への寝返りを袁世凱に頼み その条件として総統の座を袁世凱に譲ることになります。 袁世凱が寝返れば もはや清朝には力はなく ここで 清の皇帝 溥儀は退位するわけですね
 ところが この袁世凱 中華民国初の選挙で選抜された国民党のメンバーを暗殺します。さすがに孫文も怒り、袁世凱に対し武装戦闘を挑むのですが返り討ちにされ 日本に亡命してしまいます。北洋軍は強かったということです。
 その後 袁世凱は皇帝を自称します。このような状況下 日本も清朝時代に築いた権益引き継ぎぎ、在華邦人の保護のため 5号からなる21か条をお願いします…。いくら袁世凱が北洋軍を率いていたとしても 日本には敵わないので ソ連に泣きを入れるも 渋々16カ条だけ結びます。
 
日本  …… 「清朝さん時代に引き続きよろしくお願いしますわ」
袁世凱 ……心の中…「まいったなぁー 日清戦争じゃ北洋軍はコテンパンにやられたし」
日本… 「 まさか ダメなの 」
袁世凱……心の中…「21カ条全部受け入れたら 民衆から腰抜けと思われるし…」
日本… 「 返事はぁー 」
袁世凱…「あのー、16カ条だけで勘弁してもらえないでしょうか」
日本… 「ち、しゃーねぇーなぁー 分かった よろしくな 」

 これじゃー国民の求心力を得ることは出来ません…その後袁世凱は病死します…。

 北京において袁世凱死後 北洋軍はまとまりがなくなり 安徽派(あんきは)と直隷派(ちょくれいは)で分裂し争うことになります。ちなみに列強国も抜け目なく この派閥争いに加わっています。 安徽派は親日的な活動をし、直隷派はアメリカの支援を受けていたのですが、、その後 馬賊出身の 張作霖(ちょうさくりん)率いる奉天派が 直隷派に味方し 親日の安徽派は破れてしまうのです…。 日本の勢力後退 が、…
 安徽派と奉天派の共同政権が始まるのですが、またここで仲間割れが起こります。そこで 日本は 支援していた安徽派が敗北したため張作霖(ちょうさくりん)率いる奉天派を支援をします…。結果 奉天派が勝利します…
 しかし、欧米列強イギリスやアメリカは 張作霖に 権益拡大のためすり寄ってきます…。時は第一次世界大戦も終わり ベルサィユ条約において 満州にある敗戦国ドイツ権益を日本が引き継ぐことなどの理由で 帝国主義反対の 5.4運動が中国全土に広がり 抗日ムードだったのです…。
 特に大陸権益に出遅れたアメリカは満鉄に対抗すべく鉄道建設支援に乗り気であり 張作霖は支援を受けていた日本に対して決別の意思を強めていくことになります…。
 この頃、 広東政府の国民改革軍(国民党)が配下の共産党と共に北京政府打倒のため北伐に向かいます。2回目の北伐で、張作霖 奉天派は敗北します…。この時の国民党リーダーが蒋介石で、その頭角を現してきます…。 
 国民党に敗北した 張作霖は奉天に向かうため列車で逃亡します…。
日本では内閣(田中儀一内閣)と在満州関東軍の間で 張作霖の対応に意見が分かれます…田中儀一は張作霖を再起させたいという意向 関東軍は傀儡政権には限界があり 張作霖は 日本に対して害を及ぼすという意見でした。…この段階で関東軍には 当てにならない傀儡政権でなく、傀儡国家構築 つまり 満州国建国の構想があったのではないでしょうか…
 張作霖は 関東軍の河本大作らの謀略により 逃亡中の列車爆破事件により死亡します。
このあたりから 日本軍部の独走が少し見えます…
 張作霖 死去後 息子の張学良(ちょうがくりょう)に奉天軍閥は受け継がれました。父 張作霖の教育方針により張学良は高い教養を身に付け満州軍閥争い時代は 親子で日本に協力的であり、20歳の時に訪日しています。しかし、父の爆殺事件以降は抗日に転じ、蒋介石率いる国民党の旗(青天白日旗)を次々と満州の各地に掲げ 反日感情を激化させていくのです。…日本軍によって父親を殺されたのですから その恨みもあったはずです。… 在満州関東軍としては日露戦争で大きな犠牲を払いながら得た 満州大陸の権益に危機感を感じます…。
 
 満州事変後 日本は満州に進行凄まじくみるみる占領していきます。 これには日本の内閣も困惑します。なぜなら列強国のひとつ アメリカが非常に怒っていたのです…さすがに政治側からするとアメリカ に睨まれることは厄介なはずです。アメリカの国務長官スティムソンは日本の外務大臣 幣原喜重郎(シゲハラキジュウロウ)に戦線の拡大停止を要求するのですが…すでに関東軍 戦線拡大をしてしまった後で アメリカ激怒します。他の欧米列強国も非難し始めます…。
 
日本は満州国建立後…国際連盟を自ら離脱します…
満州国は、溥儀を皇帝に五民族共和主義を政策に取り入れ独立国への道を歩み 特に停戦協定が結ばれ何事も無い期間が四年ぐらいは続いています…。

 内紛状態の中国も 一致団結抗日戦への決意を固めだします。かって関東軍に父親を殺害されたと思い、日本への忠誠は消え抗日派に転じた張学良だったのですが、蒋介石の方針により優先的に共産党と戦い 日本にはほとんど抵抗を示しませんでした。、これは 上の年号にもあるように 塘沽協定(停戦協定)を結んでいた理由もあり…。蒋介石は欧米列強から支援を受けながら 列強日本よりも共産党への対峙を優先していたのかも知れません…
 しかし、張学良は延安(えんあん)で共産党軍と戦いを続けるうちに 同じ中国人同士の殺し合いに疑問を感じ、徐々に共産党が主張する抗日民族統一戦線に共鳴を受け、蒋介石を拉致監禁し 共産党と協力し日本軍と戦うことを説得し同意させます。これが上の年号にある西安事件です。   翌年、盧溝橋での中国側の発砲により 盧溝橋事件が起き その後 本格的に日中戦争が始まるわけですが、盧溝橋事件の前、日本が知らぬ間に、国民党と共産党で第二次国共合作を成立させ…実質中国は一枚岩となっていたのです…。 しかし、この裏にソ連コミンテルンの存在があり、国民党政府を日本軍と戦わせお互いを疲弊させる目的もあったとも言われています もし、そうだとしたらそのコミンテルンの諜報活動は成功したということです。 蒋介石も最終的には 毛沢東率いる共産党軍に敗れ戦後台湾へと逃亡します。 張学良は西安事件後 自ら進んで国民党政府の裁判に出廷し拘束下におかれ 国民党敗北後、蒋介石とともに台湾へ移り、ほぼ生涯軟禁状態の生活を送るわけです。2001年まで存命しています。 蒋介石と張学良の間には何があったのでしょうか とても興味深いです…。

 日露戦争に勝ち、アジアで唯一 列強に名を連ね…第一次世界大戦でも勝ち抜いてきた当時の日本軍は非常に強かったということが分かってきたのですが…各国の思惑まで支配することはできないということですね まだまだ、戦争は続きます…。

to be continued
 



2014年8月25日月曜日

日本の戦争を少しだけ遡る…列強の世界 Ⅳ

 最近の話題のひとつに 集団的自衛権を認めれば 戦争の抑止となる。もしくは否かなどTVで議論されていますが、このような議論をする人たちは 日本が戦争に巻き込まれる可能性が どこまであるのか考えているのでしょうか… とても興味があるところです。
 太平洋戦争後 小さな紛争は世界各地で起きていることを忘れてはいけないように思います。過去の戦争は 小さな紛争から 事態は大きくなっているような気がしてなりません…今は トリガー(引き金)を指一本で引ける近代戦です…。

我が国の太平洋戦争前を さらにしつこく 日本以外の列強国を含め探ってみたくなりました。
 … 日本が一方的に 満州事変以降 進軍し 満州国を建国させ溥儀を皇帝にし 中国の反感を買うという どうも 日本だけが戦争に突き進んでいるような印象が強いのですが…実際そうなんですけどね…。しかし、戦争というものは 終結段階で 賠償金なり 領土の返還なり 負けた方がそれなりの代償を被ってきたわけであり そこで条約という 当時の国際法が存在していた訳です… 
…そこで

 他の国はどうなの?ってことです…

ならば アメリカは?ロシアは?イギリスは? 中国は?

ちと、さらに しつこく…  日清戦争直前から… おさらいを兼ねて 

 さらに それ以前となれば 日本は鎖国状態ですし  西欧米国は 侵略 搾取型植民地政策のオンパレードですし 帝国主義が世界中を席巻しその中に巻き込まれる国は多数あったはずです…。
 1842年…南京条約…イギリスと清国の阿片戦争終結に向かう講和条約です…。この戦争 イギリスの勝利ということなのですが、清が気の毒のように感じます…。そもそも清とイギリスのお茶の貿易が イギリスにとって赤字だったということから始まります。イギリスは この赤字の穴埋めのため インドで阿片を栽培し清へ輸出するわけです。… どう考えても阿片はまともな商品ではありません…。清は様々な方法で阿片の受け入れを拒否するわけなのですが、イギリスは自由貿易と開国をタテに戦争にもちこんでいくという訳です…。
 南京条約で イギリスは 清から香港を割譲(この時は永久) 賠償金 あとは清に主要港の開港をさせます。  
 他の列強国も
1845年…マカオはポルトガルの植民地へ
1894年…日清戦争 日本も賠償金と台湾と遼東半島の割譲を受ける(後 三国干渉で遼東半島返還)
1898年…香港領域拡大協約においてイギリスへの租借を99年間とする。(1997年返還しています) まぁー 清の時代の約束を守ったということですね。
1900年…義和団の乱 清西太后が列強8国に宣戦布告 以降 ロシアは満州に居座る
1901年…北京議定書 清朝と列強8か国 仲裁も列強国 莫大な賠償金は分割払い
1903年…パナマ運河条約 11月にパナマがコロンビアから独立 コロンビア自体がスペインから独立した国なのですが、パナマ運河建設をコロンビアに拒否されたアメリカがパナマを保護国として独立させ、パナマ運河地帯幅16Kmの主権をアメリカは獲得します…。当時 コロンビアではパナマ地帯の独立派が居たということもあり コロンビアはアメリカの圧力に屈したということです…。

 この頃、他の列強国も植民地獲得で忙しかったということ…。そんな時代だったのでしょう。

ドイツは 
ベルリン ビザンティーム バクダートを結ぶ地域を勢力下にし 中国へと進出する3B政策

イギリスは…カイロ ケープタウン カルカッタを結ぶ3C政策…ドイツと対立

フランスは…モロッコを

オランダは…インドネシアを獲得

ロシアは…南下政策で奉天を占領  その頃 日本も満州大陸への進出を強めていた。

1904年…日露戦争
1905年…9月ポーツマス条約(日露戦争の講和条約) 
1911年…辛亥革命 翌年 中華民国 建国 …但し 一国多政府という乱世の地域

1912年…清の溥儀皇帝の退位 当時溥儀6歳 溥儀は3歳で即位しています。 ラストエンペラーという映画にもなってますね…。
 溥儀が退位する条件を参考までに…
清朝と中華民国との間で「清室優待条件」という約束が締結されます。これは退位と引き換えに溥儀が紫禁城に居住し、中華民国政府が清朝の皇室に対しお金を払い 清朝の陵墓を永遠に保護するというような内容…なのですが、後に中華民国 国民党の軍が清東陵の墓室を破壊し略奪するという 東陵事件などが起きている…この事件により 溥儀が日本に接近するきっかけともなる…。

1914年… 6月 第一次世界大戦 始まる(サラエボ発)

1915年…アメリカは債務返済を理由に海兵隊をハイチに上陸させる…数十万人のハイチ人がキューバやドミニカへ亡命 1934年まで実質アメリカの軍政が続き 憲法などが導入された。


1915年…1月 中国へ 21箇条を要求…。 中国(中華民国)の建国から3年後です。
 この21箇条を中国へ要求したのは 日本側にも 理由がある訳で、消滅した清朝の時代からの条約を 引き継いで中華民国(中国)と締結し直す必要があるということ。…
 イギリスも清朝時代に結んだ 香港の租借条件を 引き継いだ訳ですから…中国側からすれば不当だと思う一部も居たかも知れませんが 日本側からすれば当然だと思っていたはずです。まだまだ、中国は各地に軍閥が現れかねないという群雄割拠状態で治安維持能力が無く…それにより大きな犠牲を払って得た日本の権益が脅かされていたのも事実だと思います。
 早い話 この21箇条は日本からのお願いというより 当時の建国 間もない中国にとっても 西洋列強国から自衛のため 利害が一致しても良かったはずであり、少なくとも辛亥革命によって中華民国の独立へと導いた 指導者 国父 孫文 が 中国の臨時大統領に就任した頃までは 日本と手を組み西洋の圧力を跳ね返すような考え方はあったのではないでしょうか。
 孫文は1913年から1916年まで 中国を追われ日本に亡命しています。まだまだ 中国は 第一革命に第二革命が勃発するほど不安定であり。21箇条の要求は日本側の横暴のように言われますが、中国(中華民国)の独立建国が1912年 その当時の臨時総理大臣が孫文であり それから1年もすれば 孫文は中国を追われ日本に亡命してしまうわけですから… 在華邦人の保護のための5号からなる21カ条の要求はあって然りのような気もします。 
 ちなみに 当時の中国の統率者は袁世凱です。
1915年…5月25日に 21箇条要求のうち 16箇条で締結されることになります…が
 
同年
1915年…6月には「懲弁国賊条例」なるものが中国で発布されるのです。
  これは 日本に対しては 日本人の居住を認めるような条約を締結しておきながら 中国内においては…「日本人に土地を貸したものは 問答無用で死刑に処す…」そんな内容であり 実質的に条例を破っていたとも言われていますが…真相のほどは?

1917年…3月 ロシア革命
1918年…ロシアは第一次世界大戦で単独講和

世界初の社会主義国が誕生するわけですが…

1919年…5月4日 5.4運動 これはベルサイユ条約の結果に不満を抱き 北京から全土に広がった抗日反帝国主義を訴えた大衆運動…大戦後、パリの講和条約で 日本はドイツの持っていた山東省の権益を そのまま引き継ぐことになります。これが国際的に承認されるということに対する反対運動です…。
 よーく考えてみると 中国も清朝の時代から 阿片戦争以来 列強国からの脅威にさらされ 帝国主義が世界中を席巻していたわけで そんな中 ロシア革命が起き アメリカも連邦議会で民族自決主義が盛り込まれた 14カ条の平和原則 を発表しています…。その内容に感化された大衆たちの間でデモが起きても仕方が無いのかも知れません。

1919年…6月26日 ベルサィユ条約 調印
 
 民族自決主義というのは 各民族が自分の好きな政治組織に属し 他民族への干渉をしないというような 民族独立的な考え方です… 但し、アメリカやイギリスの租借地(植民地)や併合地には関係無く この原則は多民族が居住しているヨーロッパへ対するルールのように思えます…。
 また このアメリカの自決主義の盛り込まれることにより 民族間の争いや 迫害の火種に成り得る要因の危惧に繋がります…。
 
 このように平和運動やら 軍縮やら 色々と 人類は平和へと願いを馳せるのですが 戦勝国が正義である以上 戦争の歴史は終わらないようです…。まだまだ 日本を取り巻く国際情勢は 様変わりし 日本もそれに翻弄されていきます…。

To be continued





 

2014年8月21日木曜日

日本の戦争を少しだけ遡る さらに大雑把に…Ⅲ


未だ、地球上での紛争は絶えず
歴史の節目は戦争によって 作られてきたと言っても過言ではないのかもしれません。

 我が国 日本も明治維新以降 アジアにおいて いち早く 開国和親を掲げ万国公法の尊守を布告し 万国対峙のため 強国自立を目指すことになります。富国強兵のスローガンと ともに我が国日本は戦争の真っただ中へと踏み込んでいきます。

 1932年に起きた 五一五事件をきっかけに 政治家たちは反軍的な言葉を差し控えるようになっていくのです…。また 現職総理大臣を殺害したテロが さらに大がかりな 二、二六事件へと繋がっていきます…。昭和天皇を 「自ら近衛師団を率い現地に向かう」 とまで言わしめた事件です。
 五、一五事件は海軍将校が起こしましたが、
 二 二六事件は陸軍の若い将校たちが首謀者です。
 軍事演習と称し兵卒を引き連れ その総員は1483名。 岡田啓介内閣総理大臣 鈴木貫太郎侍従長 斉藤実内大臣 高橋是清大蔵大臣 渡辺錠太郎陸軍教育総監 牧野信顕前内大臣を襲撃  そして 総理大臣官邸 警視庁 陸軍省 参謀本部 朝日新聞社と 永田町一帯を占拠します。

 背景には 東北地方を中心とした地方庶民の困窮と生活苦 それに対応出来ない政府の無策ぶりに憤慨した志高い青年たちの暴走ということになっています…。これは五、一五事件と共通です。
 また、皇道派と統制派の派閥争いが根底にあったとも言われています。
 天皇陛下は近臣に騙されているという若い将校たちの勘違いもあったかも知れません… 世直し的発想もあったことでしょう…。果たして若い純粋な愛国者たちは国際情勢や政治に熟知していたのでしょうか…。
 
 この事件の首謀者たちは 皇道派(天皇崇拝絶対主義者)でありながら 天皇陛下から絶対的信頼を受けている人物たちを襲撃し殺害するわけです…。 天皇陛下の父親代わりである 鈴木貫太郎。 金融恐慌において経済手腕を発揮し、天皇陛下から絶対的信頼を受けていた高橋是清は軍事費削減を訴えていた政治家の一人です…。襲撃対象の中には海軍関係者も数多く居たわけで この事件後 陸軍と海軍の軋轢を生みだす原因ともなっていきます…。
 
 それまで 立憲君主の大原則として「君臨すれど 統治しない」 
政治に口出ししないという昭和天皇がはじめて自ら意見を述べ 激怒します…。
 天皇陛下の意向を重視した 警察や陸軍は これら襲撃犯を反乱軍として扱い 戒厳令を布いた上で鎮圧にあたります…。首謀者たちの中には拳銃自殺をした者、逮捕され裁かれた者(銃殺)さまざまな結末になります…。(五一五事件では処刑もなく、その後 恩赦で全員釈放されています。)
 
 歴史の裏側になることですが、
 当時 人材発掘の意味で選挙はあったものの 政府実権の一部を握っていたのは 一部の血族財閥であり その系列企業であることです。
…例え 総理大臣に対しても その影響力は強く、政界と強く繋がりがあったということ…。

かりに政治も財布も軍部が掌握したら…どうなるのか…
 
 二二六事件で 襲撃されたのは 海軍出身で戦争回避派、また 天皇機関説を支持する当時の首相 岡田啓介(難は逃れるものの その後求心力を失っていきます)と その片腕であり 軍事費削減政策を強く推し進めようとした 高橋是清(死亡) 等 であること…
さて 軍事費を削減されたら…どこが(誰が)減益を被るのか… 色々と興味が湧くところです。
 
 五一五事件の前年
1931年 満州事変が勃発 ここで 日本と中国(中華民国)の間で武力紛争が起き 5カ月で満州全土を占領しています…。 きっかけは南満州の鉄道の一部が爆破され、当時これを日本陸軍(関東軍)は中国側の仕業とします…が 実は 日本陸軍(関東軍)が爆破していたのです。今で言う自作自演…。 満州鉄道は日露戦争でその権利を 日本がロシアから譲り受けたものです。
 
 さて中国の状況は
1911年…辛亥革命 が勃発し 
 その翌年 中華民国が建国され孫文が指導者となり…。
 当時6歳の清朝廷 幼帝溥儀は自動的に退位し清朝廷は完全に滅亡します。
 翌年1913年に第二革命によって袁世凱が孫文を排斥。孫文は日本に亡命
中華民国は何人かの総統が1~2年単位で交替する中、やがて共産党の勢力も台頭し始めます。
 蒋介石率いる国民党 と 毛沢東率いる共産党が政権を争ってる間、日本軍は中国への勢力を強めていくわけです。

 そのような経緯から 1932年…日本軍(関東軍)は清朝 最後の皇帝 溥儀(西太后が母親)を担ぎ出し 満州国を建国させます…。中国もこれには黙っていませんでした。結果 欧米列強国は満州国建立は認めず国際社会から日本は孤立していくことになります。

1931年… 満州事変 の 後
1932年… 3月 満州国建国 
  同年 … 5月 五一五事件が起き 
1933年 …日本は国際連盟脱退(満州国の建立は国際社会が認めず)
1934年… 日本はワシントン海軍軍縮条約を破棄
1936年… 二二六事件 
1937年…  7月7日 盧溝橋事件 日中戦争が始まります。

 五一五事件と二二六事件の大義には国民の暮らしが含まれているのですが、 この二つの事件の以前から その間 そして以後まで 既定路線のように軍閥へと向かっています…。この二つの謀反によって 政治家は反軍的な言葉は控えられ 陸軍統制派にとって扱いにくい極右翼的思想集団も排除出来 政治的な勢力を強めていくとになります。

この後 日中戦争は泥沼化…。
1938年…国家総動員法
1941年12月8日 日米開戦(太平洋戦争勃発)

少し大雑把に年号を並べてみても 何故 このような戦争が起きたのかまったく分かりません
間違いや見解の違いもあるかも知れませんが も少し深く歴史の中を覗いてみたくなりました。

… to be continued







2014年8月19日火曜日

 大雑把に 日本の戦争を少しだけ遡るⅡ


この頃 日本国内では 軍閥の足音が聞こえてきます…。

1932年5月15日 …五.一五事件
 海軍の青年将校たちと 民間の右翼青年たちが首相官邸に乱入し 当時の首相 犬養毅を射殺します…。 当時の政治に不満を持った 軍部の反乱…。日本は不況で 農家などの惨状なども訴えた上で 政治の大企業(財閥)癒着における汚職や腐敗に対する謀反の要素も大きい…。
その以前も 1930年 ロンドン軍縮会議に会議に参加した当時の首相 浜口幸雄 も アメリカ イギリスに対して弱腰であるという理由で 暴漢に襲われている
 農家が実家である若い将校たちも居ただろうし 当時は軍隊への入隊は志願なので 3度のメシのために入隊した若者も多かったんじゃなかろうかと … 勝手な推測ですが…。
 
1936年2月26日  …二、二六事件
 今度は 陸軍のクーデターです…。陸軍の青年将校たちは 首相官邸 警察庁 朝日新聞社  を占拠し 高橋是清大蔵大臣 斉藤実内大臣らを 殺害…。
 これは軍の派閥争いから起きた様相が大きく 二二六事件と比較すると規模が大きく1500人近い兵を率い決行されています。
 天皇の名を利用し 悪政を行う者は許せん…そんところでしょうが、結局 天皇の激怒を買い 天皇の命により鎮圧されます…。この根底には陸軍内の派閥もあり 当時 皇道派 と 統制派 に 分かれ この事件の首謀者は皇道派の20代の若い将校たちが中心でした。

 皇道派は…天皇に親政を望み 邪魔する者は 武力をもってでも排除するという考え方
 統制派は…合法的に政府に圧力を与え 自分たちの理想的な統制を図るという考え方

 結果、天皇の命によって統制派の軍部は 皇軍派を一掃します。ここから統制派が力をつけていきます…。

 この二つの事件は 共に予算緊縮による軍縮 も 含め 農村地域への配慮 また 財閥企業との癒着や汚職など 様々な政治に対する不満なのでしょうが、政府の対応が微妙に違います。

 五一五事件も 二二六事件も 当時の日本は大不況だった背景があります。
 金融恐慌 関東大震災  おまけに アメリカからの世界大恐慌に日本も巻き込まれ、どうしようもないデフレに陥っていたようです。
 昭和三陸地震、冷害 東北地方の酷い惨状のなか 農村地域では生きてゆくための手段として、若い女性の売り飛ばすということは当たり前であり。 それでも欠食児童が増え 江戸時代の4大飢饉に匹敵するほどとも言われています。

 輸出等の経済対策により一度は経済は持ち直すものの いち抜け政策に欧米市場からやっかみを買い追い出され、仕方なく 台湾や満州などの 身内で貿易を始め 経済が回復するには これからという矢先でした。
 さらに軍にとって面白くないのは 軍事予算を減らされることでした。

 第一次大戦によりヨーロッパ諸国は
「皆で軍隊減らせば 戦争は起こらない…」そんな風潮に変わってきました。

 日英同盟により 戦勝国イギリス側に付いている日本にとって 海軍の国際会議に参加せざる負えず、当然 海軍は憤慨します。ここで面白いのは当初 軍縮を決定した当時の総理大臣は 選挙でぼろ負けし、後釜に犬養毅が総理大臣に受任しているので 殺害された犬養毅は関係ないように思われます…。 が 
いずれにせよ 世論も政治には不満があったように思われます。

五一五事件の場合
 決行総員は少なく 若い海軍将校がほとんどであり 決行総員も少なく どちらかというとテロ的要素が強い事件でした。経緯を知った世論は同情し、助命嘆願運動が起きるほどで、…

 誰一人処刑されず。すぐに恩赦で釈放されています…。


さて、それから4年後 
二二六事件が起きます… 
 同じ軍人の決行でも 五一五事件とは少し様相が違います…

天皇陛下は お怒りになります…。





 To be continued









2014年8月17日日曜日

終戦記念日 も過ぎ …日本の戦争を少しだけ遡る Ⅰ

よく、太平洋戦争のワンフレーズだけで 戦争が語られ
ある時は自虐史観となり ある時は戦争賛美ともなる…
それぞれの国の言い分もあるはずです…。
おさらいですが、おおまかに 明治以降 日本の戦争を振り返ります…。
原爆を2発も落とされ 完膚なきまで叩きのめされた敗戦までの
大きな布石が いくつもあるはずです。…。



1894年…日清戦争までの経緯



1882年 壬午軍乱(朝鮮事変) 清の従属国であった朝鮮は日本から軍事顧問を招いて改革を試みるも 親清派のクーデターにより 日本公使館が襲撃され 日本の軍事顧問が殺害されます。
 


内情は


守旧派の大院君(高宗の父)=大事党 
VS 
改革派の閔妃(高宗の妻)=開化党日本


当時の李朝は国益のことは考えず派閥抗争しか考えていなかったのでしょうか コロコロと組む相手が替わっていることが伺えます…。


軍隊の近代化を日本に見習おうとした開化派なのですが、


閔妃一派は腐敗しており、内部反乱が起こるわけです。そのことを利用し対立していた大院君が閔妃一族と多数の日本軍事顧問を殺害します。この段階で大院君の謀反は成功したかのように見えますが、今度は閔妃が清国の袁世凱にすり寄り反乱鎮圧を理由に清国軍が派遣され、大院君は閔妃に売られ幽閉されることになります…。 この時 この事件の事後処理として 日本との間で済物浦条約が結ばれ、李朝では、軍事 外交 とも 清の顧問が置かれ されに属国化していくことになります。


1884年 甲申事変 朝鮮は日本の明治維新を模範とし改革を独立派が日本からの支援を受けようとするのですが、清が鎮圧します。


内情
壬午軍乱(朝鮮事変)によって 李王朝は清の属国化が進んでいくことになるのですが、壬午事変により亡命していた金玉均(キンギョクキン)らが福沢諭吉 後藤象二郎 などの支援を受け 高宗を取り込み クーデターを起こします。閔妃一族の 悪貨乱発や神託政治 など腐敗した政策に加え、実権がまったくなかった 高宗は同意することになるわけです。当時 清国はベトナムでフランス軍と戦争中でもあり、日本の援助による立憲君主制度の確立と 維新と近代化を目指した 開化派は1884年12月4日にクーデターを起こし、成功したかのように見えたのですが、ベトナムでフランスに敗戦した清国は 朝鮮まで失うわけにはいかず、袁世凱率いる清軍を送り込み 3日で開化派の内乱を鎮圧します… 開化派は 再び 日本に亡命しますが、多くは金玉均も含め 一族もろとも処刑されます。


1885年 天津条約 日本側全権の伊藤博文と清国側全権 李鴻章(朝鮮)との間で条約を結ぶ…


内情
壬午事変や甲申事変などで 朝鮮半島を巡って 清国と日本が争うことは両国にとって得策ではないと判断…。
天津条約の要点は以下の通り


1、日清両国は朝鮮から撤退を開始すること
2、日清両国は朝鮮に対して軍事顧問の派遣をしない、朝鮮には日清両国以外の外国から数名の軍人を招致する
3、将来朝鮮に出兵する場合は相互通知を行い、派兵後をすみやかに撤退し駐留しない。


しかし、清国 袁世凱は通商事務全権委員としてソウルに残り、中国人街を形成し、朝鮮人商人を圧迫していた。


1894年 東学党の乱 朝鮮で減税を訴えた 農民 東学党が内乱を起こす 


内情
壬午事変や甲申事変 以降も
閔氏政権化 腐敗と 両班(官僚)たちの 賄賂や不正収奪の横行は止まらず、閔氏自らの手で改革を行うことは出来ず、そのつけは重税となり一般民に振られ、民衆の不満は高まり甲午農民事変に発展する…この農民たちの武力奮起に政権軍は太刀打ち出来ず、清国へ援軍を要請、結果
天津条約の相互通知により、日清両国が朝鮮出兵することになり…日本は公使館警護と在留邦人保護の名目で派兵し、清国軍と対峙することになります…。


こんな感じで…
 もともとは朝鮮内乱の鎮圧を朝鮮政府は清に援軍を頼むところから この戦争の起因が起きたようです。日本にとって 朝鮮半島がロシアなどの強い国に勢力を強いられることを警戒 当時は隣国が襲われたら 次は日本…そんな考え方だったのでしょう
 清が朝鮮に影響力を強めると 日本にとっての危機と考えたのかも知れません。ならば、清を叩いて朝鮮政府へ影響力を与える… 今のようにミサイルが有るわけでもなく、隣に強国が攻めてくれば、 
「オイもう隣の家が燃えてるよ、うちは大丈夫かよ」って そんな感じだったのでしょうか…。
 国力としては 清の方が遥かに上ですが アジアにおいて 欧米方法で近代化を進めてきた日本だけにあっさりと勝利 … 戦争期間 3か月 

下関条約…清との間で交わす内容

朝鮮半島の独立 ( 朝鮮半島は清の支配下であったということですね) ここで大韓帝国という国名になり独立宣言をします…。
日清通商航海条約を結ぶ
(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせる)
清は朝鮮半島の横にある遼東半島と台湾を譲り渡し 当時 日本の国家予算の2倍の賠償金を支払う…。日本にとって台湾は初の植民地だと考えられます…。しかし、台湾はかなりの抵抗をしているようです。台湾での日本軍戦死者2000人 日本は軍の統治から政治的統治に切り替え近代化政策を気長に打ち出すことで少しずつ鎮静化していきます…。


 ロシアにとっても魅力のある遼東半島…ロシアはフランスとドイツを誘い 日本に返還を訴えます…。日本は遼東半島を清に返還します…。ロシアも思惑があったのでしょう…
日本は
「お前ら関係ねぇーだろ でも お金と台湾もらったからー」…と言いたかったかも…
遼東半島を返還するこにより ロシア フランス ドイツ は納得し、文句を言わなくなることにより台湾の抵抗も鎮静化してきます…。

 清が日本に敗戦したことにより、列強の国々は 中国への進出が盛んになります。
「清ってアジアの強国だと思ってたけど 日本に負けた そんなに 強くない」 
 日本が返還した遼東半島の一部も ロシアに租借され ドイツ フランス イギリス も 清の至るところを租借しだしました…。当然、清も抵抗します。当時清の実質支配者である西太后は各国へ宣戦布告…結果 日本を含むロシアや列強8か国は 鎮圧のため出兵し清は 過酷な
北京議定書を受け入れる。、
 「抵抗すれば さらに厳しい条件を 受け入れる羽目に…」 武力が強い国ほど富めるという図式です。さらに中国の半植民地化は進みます…。ここで 他国が兵を引き上げる中、ロシアだけが兵を増強し満州を実質占領し さらに南下政策を推し進めようとします。
 満州の下には朝鮮(大韓帝国)があり 隣は日本です。当時、朝鮮半島は日本防衛の生命線と考えられていました。しかし 中国に多くの租借地を持っていたイギリスも ロシアの勢力拡大に難色を示し 日本と同盟を結びます。
日英同盟ですね…。当時のイギリスは世界最強です。
 日本はロシアに対して「満州の権利は認めるが、朝鮮半島の支配は日本に…」と提案しますが、決裂。ここで 日本はロシアとの開戦を決意します…。圧倒的な国力の差があり 日本は短期決戦で叩き講和に持ち込むという作戦を立てるべく 当時 日本と友好関係であるアメリカにその根回しをします…。短期決戦での勝利は アメリカの仲裁でなんとか成功…
ポーツマス条約…ロシアと
 日本の韓国における優越権や南満州鉄道の一部、あと南樺太の譲渡などです。 
日本連合艦隊VSバルチック艦隊 旅順や203高地の話は日本でも有名ですね…。
 ロシアは負けを認めず 賠償金未払い…のままですが 日本にとって朝鮮半島へのロシアの影響力は避けられます…。
 これは今頃になって お隣の国と非常にデリケートな歴史認識問題になっております… 
そんな かんだ なんだ かんだで もめてます…
 当時 ホントの話 どうだったのでしょうか…中国が 列強国に租借され続け ロシアも迫っている中 当時の韓国の国力を考えると 日本と利害が一致しても良いと思うんですが…。 
 日清戦争も日露戦争も 自衛手段として日本にとって この朝鮮半島の存在が大きく 韓国の利権を巡っての戦争と言っても過言ではなく、そのために日本は 戦死者も含め大きな犠牲を払ってます…
 戦費に関しては日露戦争において 当時の日本の国家予算が2億5000万円に対して戦費15億円… 政治的戦略(ポーツマス条約)アメリカの仲裁がなければ…どうなっていたか分かりません…
 当時、韓国は日本の生命線…おまけに世界は列強国の中に組み込まれてつつある中 韓国の国力では 到底 ヨーロッパやロシアには太刀打ち出来ない、近代国家としての外交力を求めても不可能 だからと言って韓国が西洋の植民地になれば、次は日本が危機に迫られる。日本にとって 韓国の産業の近代化が必要不可欠であったように感じます…。

 日露戦争終戦後の 
1905年…アメリカとイギリスから韓国統治の承認を受けます。
同年…
 日本の外務省を通さない限り外交交渉が出来ないという内容で、韓国は外交権を失います。
 その時 首都ソウルに統監府という統治のための機関が置かれ、その初代統監が 初代内閣総理大臣を務めたことがある 伊藤博文ですが…。 さすがに韓国の一部はこれには黙っていなかったようです。
安重根(アンジョウグン)という韓国の青年に 伊藤博文は射殺されます…
伊藤博文は韓国併合に対して唯一反対派の大物政治家だったと言われています。
皮肉な出来事です…
この暗殺がきっかけで
1910年…日韓併合条約を結び 名前を朝鮮と改められ韓国は実質的に 日本の統治下になります…。
1911年 辛亥革命
1912年 中華民国建国 ここで清は滅亡します
 きっかけは サラエボで起きた事件です。オーストリアがサラエボを併合していたのですが サラエボでオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺され オーストリアがセルビアに宣戦布告します。アジアとの境目 バルカン半島は 肌の色 思想 宗教 様々な思惑が入り乱れた地域だけに大きな紛争になっていきます…。
 ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリなど に対して 連合国 イギリス・フランス・ロシアなどが
ヨーロッパで争った戦争です
三国協商(イギリス フランス ロシアを中心とした連合国) 
VS 
三国同盟(ドイツ オーストリア イタリアなどの同盟国)

 次々と各国が参戦していますが、それぞれの参戦国には思惑があったはずです。この頃、欧州は植民地争いの激戦区だったからです。

 さて、日本は…? 参戦しています。
日露戦争以降 日英同盟を結んでいるという大義もありますが、日本が目論んでいたのはイギリスの敵国である 中国にあるドイツ基地を攻撃するこであり、中国に出兵します。日本にとって対岸の火事であり、別に日本が参戦したからと言って 何らに影響も無く 要請があった訳でも無いはずです。
 目的は中国への勢力を強め 列強国の排除…そんな感じではないでしょうか…。
まさに陣地争いですね。

このような要求を中国へ突き付けるわけですね…。

中国政府へ日本人顧問を採用すること、
旅順、大連(韓国に近い中国の土地)の租借(借りる権利)
期間や満州鉄道の租借期間の延長が盛り込まれていました。
この21条の要求や希望なので、実際中国側に認められたのは16カ条でした。
日本の勝手で要求を 中国側に突き付けたわけですがから 中国の排日運動に繋がっていきます…。

 第一次世界大戦はヨーロッパを中心に30か国以上の国が参戦し、過去の戦争は軍隊同士の戦いでしたが、この大戦から民間人も巻き込む総力戦となっていきます。

この大戦のさなか ロシアは第一次世界大戦から戦線離脱します。理由は 貧しい国民はさらに苦しみ 戦争で余計に犠牲を強いられる中で… 
1917年 レーニンの登場により革命が勃発
皇帝を処刑し世界初の社会主義国家 ソビエト社会主義共和国連邦が成立します。
この時 日本は シベリアへ出兵します…。
翌年に
1918年 日本国内では一部の商人たちが 米を買い込み(物価が上がると見込んだ)米騒動がおきます。

 また、この大戦で様々な新兵器が登場します。特に潜水艦はドイツのみしか所有しておらず この潜水艦作戦により 中立であったアメリカにまで被害が及びアメリカは連合軍側に参戦します。
 戦況はこれで一気に連合軍側に傾き ドイツ国内において反戦運動が広まることもあり 皇帝ヴィルヘルム2世は退位…。

結果、
1918年…
連合国側の勝利で終戦を迎えます。
1919年…
パリ講和会議で 戦勝国と敗戦国の間での様々な取り決め その中で ドイツに対しての条約が 

と言われるものですが、ドイツは膨大な賠償金を支払い 海外領土の没収など 過酷で厳しい条約を結ぶことになるのです…。
日本もこの時ベルサイユ宮殿まで出向き 講和会議に参加します。
ちゃっかり
ドイツ領だった、マリアナ諸島 パラオ諸島 カロリン マーシャル諸島を手に入れます。

当時の戦争はまさに陣取り合戦(権益) 勝負で負ければ大損害 勝てば大儲け そんな風に感じるのは私だけでしょうか…大雑把な感想ですけどね…。

to be continued

























2014年8月14日木曜日

お盆の渋滞 英彦山へ逃避


お墓参りへの道のりは
大体 片道100km弱
福岡市から築上町の椎田というところまで。
いつものルートだと 福岡都市高速 篠栗 八木山バイパス 築上町 椎田
家族が居ればそんな感じです。
普通の日ですと 4輪で 2時間も掛からない…


お墓の掃除は すでに完了している。
今年は家族も 入院やらで 子供たちも祖父母のところに疎開している。

お参りだけなら 二輪で向かえば 
シャシャと済む …  
のんびりと朝無精してしまい大失敗… 発ったのは午後2時近く
早朝に発てば良かったのですが…

ちょっとした ソロプチツーのつもりが
篠栗で八木山峠入口 大渋滞 
飯塚市街地 大渋滞
田川201 は 交通量は多い…

とにかく 椎田道路に向かうまで
片側一車線の道路という道路は 大渋滞… 
すり抜け すり抜け で 左側握力低下 神経消耗 そして 暑い…。


お墓に到着した頃は ヘトヘトでした。
その後
近くのファミレスで軽食を摂り、水分補給 で 1時間程休憩…。

もう、1mたりとも 渋滞の中を走りたくない…
で、帰路は
今は もう ナビにすら案内してくれない 昔からある旧道を通り
築城基地周辺方面から一気に 向こうに見える山越えを選択

英彦山超え 経由の 飯塚 八木山 と 帰路ルートを決める
地理感がないので 適当です。


川沿いの快適な道路も終わり 山登りが始まると 
このような看板を至るところで目します。
道幅も狭い上 路面も荒れ 薄暗く ヘアピンの連続で、
所々 道路脇の岩肌から 道路中央まで 妙に発色の良い コケが生してます。
だーれも居ません それでも 渋滞よりマシです。


登坂も終わり 路面もまともになってきます…。
その昔 まだ、未舗装だった頃
オフ車で通ったことがあるような記憶がよみがえります…
時は夕刻 まして 霊場として有名な英彦山です。この日はお盆お迎えの日です。
だーれも居ません
… それでも 渋滞よりマシです。


ここは天狗の山で有名ですよね…。
天狗どころが だーれも居ません 時折 キョエーという得体のしれない鳴き声が…
それでも 渋滞よりマシです。むしろワクワクします。


英彦山神宮という神社で 夕日がとても綺麗だったので ちょっとバイクを停車
お土産屋さんがありますが、全店閉まっていました。
だーれも居ません… それでも渋滞よりマシです。


道路脇に居た野生の鹿と目が合いました それも 二頭…。
一目散に山の繁みの中に逃げていきました。


ここからは 田川に向かわず 朝倉方面に向かい 飯塚経由で帰宅…遠回りですが。

結局は 
お墓参りに向かった つもりだったのですが、
帰路はちょっとした ソロツーリングになった 日でした…。




 







2014年8月13日水曜日

お盆…先祖をお向かえするために。


お盆は 先祖をお迎えし、そして 送る日です。

現代社会では お盆返上で働いてる人たちも沢山います…。

が、

お盆休みがある人たちは

先祖に近い 実家のある場所に帰省し

それぞれの地方にある お盆独特の行事に参加します…。

国民的休日であるので 休みになる人たちは多いはずですが

仏教的行事を重んじてない 人々にとっては

単なる お盆休みということで

旅行に行ったり 遊びに行ったり 家族サービスに…等々
 休暇となるので 単なる休日になるんでしょうね…



子供の頃から お盆になると

意味も分からず お墓の掃除に 親から連れて行かれ

お迎えの日だけは 拘束されていた記憶が大きいです。

信心否定をしながら 無神論者を気取っている つもりでも

習慣とは恐ろしいものです…

お盆になれば 雨が降ろうが 猛暑で汗だくになろうが

遠い場所にある 墓地に向かい 丁寧に草をむしり

お墓の掃除をする

物心ついて 一回たりとも 欠かしたことはありません…。

先祖を敬う 日本人の心だけは忘れたくありません。


このような 習慣を 次の世代まで残し

先祖が眠る お墓を守ることは

大事なことだと 思っていますが、

次世代が
もし、キリスト教や 他宗教を信心しだしたら どうなるのだろうか…
外国で暮らし 日本を忘れてしまったらどうなるのだろう…
子供の人生です…好きにお絵かきしてもらいたい。

そんなことを 考えてしまいますし、

これから 国際化の時代です。

ただ、でさえ 欧米文化に染まった我が国なのです…。



ということで

今年も 前日 お墓の掃除を済ませました。
家にある 仏壇の扉も全開にし 
先祖が迷わないよう 灯をともしました。

今日は バイクで 先祖の眠るお墓に向かうつもりです…。


お線香と 
親父が好きだった 酒(ワンカップ)と煙草を持参して…。