2014年8月25日月曜日

日本の戦争を少しだけ遡る…列強の世界 Ⅳ

 最近の話題のひとつに 集団的自衛権を認めれば 戦争の抑止となる。もしくは否かなどTVで議論されていますが、このような議論をする人たちは 日本が戦争に巻き込まれる可能性が どこまであるのか考えているのでしょうか… とても興味があるところです。
 太平洋戦争後 小さな紛争は世界各地で起きていることを忘れてはいけないように思います。過去の戦争は 小さな紛争から 事態は大きくなっているような気がしてなりません…今は トリガー(引き金)を指一本で引ける近代戦です…。

我が国の太平洋戦争前を さらにしつこく 日本以外の列強国を含め探ってみたくなりました。
 … 日本が一方的に 満州事変以降 進軍し 満州国を建国させ溥儀を皇帝にし 中国の反感を買うという どうも 日本だけが戦争に突き進んでいるような印象が強いのですが…実際そうなんですけどね…。しかし、戦争というものは 終結段階で 賠償金なり 領土の返還なり 負けた方がそれなりの代償を被ってきたわけであり そこで条約という 当時の国際法が存在していた訳です… 
…そこで

 他の国はどうなの?ってことです…

ならば アメリカは?ロシアは?イギリスは? 中国は?

ちと、さらに しつこく…  日清戦争直前から… おさらいを兼ねて 

 さらに それ以前となれば 日本は鎖国状態ですし  西欧米国は 侵略 搾取型植民地政策のオンパレードですし 帝国主義が世界中を席巻しその中に巻き込まれる国は多数あったはずです…。
 1842年…南京条約…イギリスと清国の阿片戦争終結に向かう講和条約です…。この戦争 イギリスの勝利ということなのですが、清が気の毒のように感じます…。そもそも清とイギリスのお茶の貿易が イギリスにとって赤字だったということから始まります。イギリスは この赤字の穴埋めのため インドで阿片を栽培し清へ輸出するわけです。… どう考えても阿片はまともな商品ではありません…。清は様々な方法で阿片の受け入れを拒否するわけなのですが、イギリスは自由貿易と開国をタテに戦争にもちこんでいくという訳です…。
 南京条約で イギリスは 清から香港を割譲(この時は永久) 賠償金 あとは清に主要港の開港をさせます。  
 他の列強国も
1845年…マカオはポルトガルの植民地へ
1894年…日清戦争 日本も賠償金と台湾と遼東半島の割譲を受ける(後 三国干渉で遼東半島返還)
1898年…香港領域拡大協約においてイギリスへの租借を99年間とする。(1997年返還しています) まぁー 清の時代の約束を守ったということですね。
1900年…義和団の乱 清西太后が列強8国に宣戦布告 以降 ロシアは満州に居座る
1901年…北京議定書 清朝と列強8か国 仲裁も列強国 莫大な賠償金は分割払い
1903年…パナマ運河条約 11月にパナマがコロンビアから独立 コロンビア自体がスペインから独立した国なのですが、パナマ運河建設をコロンビアに拒否されたアメリカがパナマを保護国として独立させ、パナマ運河地帯幅16Kmの主権をアメリカは獲得します…。当時 コロンビアではパナマ地帯の独立派が居たということもあり コロンビアはアメリカの圧力に屈したということです…。

 この頃、他の列強国も植民地獲得で忙しかったということ…。そんな時代だったのでしょう。

ドイツは 
ベルリン ビザンティーム バクダートを結ぶ地域を勢力下にし 中国へと進出する3B政策

イギリスは…カイロ ケープタウン カルカッタを結ぶ3C政策…ドイツと対立

フランスは…モロッコを

オランダは…インドネシアを獲得

ロシアは…南下政策で奉天を占領  その頃 日本も満州大陸への進出を強めていた。

1904年…日露戦争
1905年…9月ポーツマス条約(日露戦争の講和条約) 
1911年…辛亥革命 翌年 中華民国 建国 …但し 一国多政府という乱世の地域

1912年…清の溥儀皇帝の退位 当時溥儀6歳 溥儀は3歳で即位しています。 ラストエンペラーという映画にもなってますね…。
 溥儀が退位する条件を参考までに…
清朝と中華民国との間で「清室優待条件」という約束が締結されます。これは退位と引き換えに溥儀が紫禁城に居住し、中華民国政府が清朝の皇室に対しお金を払い 清朝の陵墓を永遠に保護するというような内容…なのですが、後に中華民国 国民党の軍が清東陵の墓室を破壊し略奪するという 東陵事件などが起きている…この事件により 溥儀が日本に接近するきっかけともなる…。

1914年… 6月 第一次世界大戦 始まる(サラエボ発)

1915年…アメリカは債務返済を理由に海兵隊をハイチに上陸させる…数十万人のハイチ人がキューバやドミニカへ亡命 1934年まで実質アメリカの軍政が続き 憲法などが導入された。


1915年…1月 中国へ 21箇条を要求…。 中国(中華民国)の建国から3年後です。
 この21箇条を中国へ要求したのは 日本側にも 理由がある訳で、消滅した清朝の時代からの条約を 引き継いで中華民国(中国)と締結し直す必要があるということ。…
 イギリスも清朝時代に結んだ 香港の租借条件を 引き継いだ訳ですから…中国側からすれば不当だと思う一部も居たかも知れませんが 日本側からすれば当然だと思っていたはずです。まだまだ、中国は各地に軍閥が現れかねないという群雄割拠状態で治安維持能力が無く…それにより大きな犠牲を払って得た日本の権益が脅かされていたのも事実だと思います。
 早い話 この21箇条は日本からのお願いというより 当時の建国 間もない中国にとっても 西洋列強国から自衛のため 利害が一致しても良かったはずであり、少なくとも辛亥革命によって中華民国の独立へと導いた 指導者 国父 孫文 が 中国の臨時大統領に就任した頃までは 日本と手を組み西洋の圧力を跳ね返すような考え方はあったのではないでしょうか。
 孫文は1913年から1916年まで 中国を追われ日本に亡命しています。まだまだ 中国は 第一革命に第二革命が勃発するほど不安定であり。21箇条の要求は日本側の横暴のように言われますが、中国(中華民国)の独立建国が1912年 その当時の臨時総理大臣が孫文であり それから1年もすれば 孫文は中国を追われ日本に亡命してしまうわけですから… 在華邦人の保護のための5号からなる21カ条の要求はあって然りのような気もします。 
 ちなみに 当時の中国の統率者は袁世凱です。
1915年…5月25日に 21箇条要求のうち 16箇条で締結されることになります…が
 
同年
1915年…6月には「懲弁国賊条例」なるものが中国で発布されるのです。
  これは 日本に対しては 日本人の居住を認めるような条約を締結しておきながら 中国内においては…「日本人に土地を貸したものは 問答無用で死刑に処す…」そんな内容であり 実質的に条例を破っていたとも言われていますが…真相のほどは?

1917年…3月 ロシア革命
1918年…ロシアは第一次世界大戦で単独講和

世界初の社会主義国が誕生するわけですが…

1919年…5月4日 5.4運動 これはベルサイユ条約の結果に不満を抱き 北京から全土に広がった抗日反帝国主義を訴えた大衆運動…大戦後、パリの講和条約で 日本はドイツの持っていた山東省の権益を そのまま引き継ぐことになります。これが国際的に承認されるということに対する反対運動です…。
 よーく考えてみると 中国も清朝の時代から 阿片戦争以来 列強国からの脅威にさらされ 帝国主義が世界中を席巻していたわけで そんな中 ロシア革命が起き アメリカも連邦議会で民族自決主義が盛り込まれた 14カ条の平和原則 を発表しています…。その内容に感化された大衆たちの間でデモが起きても仕方が無いのかも知れません。

1919年…6月26日 ベルサィユ条約 調印
 
 民族自決主義というのは 各民族が自分の好きな政治組織に属し 他民族への干渉をしないというような 民族独立的な考え方です… 但し、アメリカやイギリスの租借地(植民地)や併合地には関係無く この原則は多民族が居住しているヨーロッパへ対するルールのように思えます…。
 また このアメリカの自決主義の盛り込まれることにより 民族間の争いや 迫害の火種に成り得る要因の危惧に繋がります…。
 
 このように平和運動やら 軍縮やら 色々と 人類は平和へと願いを馳せるのですが 戦勝国が正義である以上 戦争の歴史は終わらないようです…。まだまだ 日本を取り巻く国際情勢は 様変わりし 日本もそれに翻弄されていきます…。

To be continued





 

2014年8月21日木曜日

日本の戦争を少しだけ遡る さらに大雑把に…Ⅲ


未だ、地球上での紛争は絶えず
歴史の節目は戦争によって 作られてきたと言っても過言ではないのかもしれません。

 我が国 日本も明治維新以降 アジアにおいて いち早く 開国和親を掲げ万国公法の尊守を布告し 万国対峙のため 強国自立を目指すことになります。富国強兵のスローガンと ともに我が国日本は戦争の真っただ中へと踏み込んでいきます。

 1932年に起きた 五一五事件をきっかけに 政治家たちは反軍的な言葉を差し控えるようになっていくのです…。また 現職総理大臣を殺害したテロが さらに大がかりな 二、二六事件へと繋がっていきます…。昭和天皇を 「自ら近衛師団を率い現地に向かう」 とまで言わしめた事件です。
 五、一五事件は海軍将校が起こしましたが、
 二 二六事件は陸軍の若い将校たちが首謀者です。
 軍事演習と称し兵卒を引き連れ その総員は1483名。 岡田啓介内閣総理大臣 鈴木貫太郎侍従長 斉藤実内大臣 高橋是清大蔵大臣 渡辺錠太郎陸軍教育総監 牧野信顕前内大臣を襲撃  そして 総理大臣官邸 警視庁 陸軍省 参謀本部 朝日新聞社と 永田町一帯を占拠します。

 背景には 東北地方を中心とした地方庶民の困窮と生活苦 それに対応出来ない政府の無策ぶりに憤慨した志高い青年たちの暴走ということになっています…。これは五、一五事件と共通です。
 また、皇道派と統制派の派閥争いが根底にあったとも言われています。
 天皇陛下は近臣に騙されているという若い将校たちの勘違いもあったかも知れません… 世直し的発想もあったことでしょう…。果たして若い純粋な愛国者たちは国際情勢や政治に熟知していたのでしょうか…。
 
 この事件の首謀者たちは 皇道派(天皇崇拝絶対主義者)でありながら 天皇陛下から絶対的信頼を受けている人物たちを襲撃し殺害するわけです…。 天皇陛下の父親代わりである 鈴木貫太郎。 金融恐慌において経済手腕を発揮し、天皇陛下から絶対的信頼を受けていた高橋是清は軍事費削減を訴えていた政治家の一人です…。襲撃対象の中には海軍関係者も数多く居たわけで この事件後 陸軍と海軍の軋轢を生みだす原因ともなっていきます…。
 
 それまで 立憲君主の大原則として「君臨すれど 統治しない」 
政治に口出ししないという昭和天皇がはじめて自ら意見を述べ 激怒します…。
 天皇陛下の意向を重視した 警察や陸軍は これら襲撃犯を反乱軍として扱い 戒厳令を布いた上で鎮圧にあたります…。首謀者たちの中には拳銃自殺をした者、逮捕され裁かれた者(銃殺)さまざまな結末になります…。(五一五事件では処刑もなく、その後 恩赦で全員釈放されています。)
 
 歴史の裏側になることですが、
 当時 人材発掘の意味で選挙はあったものの 政府実権の一部を握っていたのは 一部の血族財閥であり その系列企業であることです。
…例え 総理大臣に対しても その影響力は強く、政界と強く繋がりがあったということ…。

かりに政治も財布も軍部が掌握したら…どうなるのか…
 
 二二六事件で 襲撃されたのは 海軍出身で戦争回避派、また 天皇機関説を支持する当時の首相 岡田啓介(難は逃れるものの その後求心力を失っていきます)と その片腕であり 軍事費削減政策を強く推し進めようとした 高橋是清(死亡) 等 であること…
さて 軍事費を削減されたら…どこが(誰が)減益を被るのか… 色々と興味が湧くところです。
 
 五一五事件の前年
1931年 満州事変が勃発 ここで 日本と中国(中華民国)の間で武力紛争が起き 5カ月で満州全土を占領しています…。 きっかけは南満州の鉄道の一部が爆破され、当時これを日本陸軍(関東軍)は中国側の仕業とします…が 実は 日本陸軍(関東軍)が爆破していたのです。今で言う自作自演…。 満州鉄道は日露戦争でその権利を 日本がロシアから譲り受けたものです。
 
 さて中国の状況は
1911年…辛亥革命 が勃発し 
 その翌年 中華民国が建国され孫文が指導者となり…。
 当時6歳の清朝廷 幼帝溥儀は自動的に退位し清朝廷は完全に滅亡します。
 翌年1913年に第二革命によって袁世凱が孫文を排斥。孫文は日本に亡命
中華民国は何人かの総統が1~2年単位で交替する中、やがて共産党の勢力も台頭し始めます。
 蒋介石率いる国民党 と 毛沢東率いる共産党が政権を争ってる間、日本軍は中国への勢力を強めていくわけです。

 そのような経緯から 1932年…日本軍(関東軍)は清朝 最後の皇帝 溥儀(西太后が母親)を担ぎ出し 満州国を建国させます…。中国もこれには黙っていませんでした。結果 欧米列強国は満州国建立は認めず国際社会から日本は孤立していくことになります。

1931年… 満州事変 の 後
1932年… 3月 満州国建国 
  同年 … 5月 五一五事件が起き 
1933年 …日本は国際連盟脱退(満州国の建立は国際社会が認めず)
1934年… 日本はワシントン海軍軍縮条約を破棄
1936年… 二二六事件 
1937年…  7月7日 盧溝橋事件 日中戦争が始まります。

 五一五事件と二二六事件の大義には国民の暮らしが含まれているのですが、 この二つの事件の以前から その間 そして以後まで 既定路線のように軍閥へと向かっています…。この二つの謀反によって 政治家は反軍的な言葉は控えられ 陸軍統制派にとって扱いにくい極右翼的思想集団も排除出来 政治的な勢力を強めていくとになります。

この後 日中戦争は泥沼化…。
1938年…国家総動員法
1941年12月8日 日米開戦(太平洋戦争勃発)

少し大雑把に年号を並べてみても 何故 このような戦争が起きたのかまったく分かりません
間違いや見解の違いもあるかも知れませんが も少し深く歴史の中を覗いてみたくなりました。

… to be continued







2014年8月19日火曜日

 大雑把に 日本の戦争を少しだけ遡るⅡ


この頃 日本国内では 軍閥の足音が聞こえてきます…。

1932年5月15日 …五.一五事件
 海軍の青年将校たちと 民間の右翼青年たちが首相官邸に乱入し 当時の首相 犬養毅を射殺します…。 当時の政治に不満を持った 軍部の反乱…。日本は不況で 農家などの惨状なども訴えた上で 政治の大企業(財閥)癒着における汚職や腐敗に対する謀反の要素も大きい…。
その以前も 1930年 ロンドン軍縮会議に会議に参加した当時の首相 浜口幸雄 も アメリカ イギリスに対して弱腰であるという理由で 暴漢に襲われている
 農家が実家である若い将校たちも居ただろうし 当時は軍隊への入隊は志願なので 3度のメシのために入隊した若者も多かったんじゃなかろうかと … 勝手な推測ですが…。
 
1936年2月26日  …二、二六事件
 今度は 陸軍のクーデターです…。陸軍の青年将校たちは 首相官邸 警察庁 朝日新聞社  を占拠し 高橋是清大蔵大臣 斉藤実内大臣らを 殺害…。
 これは軍の派閥争いから起きた様相が大きく 二二六事件と比較すると規模が大きく1500人近い兵を率い決行されています。
 天皇の名を利用し 悪政を行う者は許せん…そんところでしょうが、結局 天皇の激怒を買い 天皇の命により鎮圧されます…。この根底には陸軍内の派閥もあり 当時 皇道派 と 統制派 に 分かれ この事件の首謀者は皇道派の20代の若い将校たちが中心でした。

 皇道派は…天皇に親政を望み 邪魔する者は 武力をもってでも排除するという考え方
 統制派は…合法的に政府に圧力を与え 自分たちの理想的な統制を図るという考え方

 結果、天皇の命によって統制派の軍部は 皇軍派を一掃します。ここから統制派が力をつけていきます…。

 この二つの事件は 共に予算緊縮による軍縮 も 含め 農村地域への配慮 また 財閥企業との癒着や汚職など 様々な政治に対する不満なのでしょうが、政府の対応が微妙に違います。

 五一五事件も 二二六事件も 当時の日本は大不況だった背景があります。
 金融恐慌 関東大震災  おまけに アメリカからの世界大恐慌に日本も巻き込まれ、どうしようもないデフレに陥っていたようです。
 昭和三陸地震、冷害 東北地方の酷い惨状のなか 農村地域では生きてゆくための手段として、若い女性の売り飛ばすということは当たり前であり。 それでも欠食児童が増え 江戸時代の4大飢饉に匹敵するほどとも言われています。

 輸出等の経済対策により一度は経済は持ち直すものの いち抜け政策に欧米市場からやっかみを買い追い出され、仕方なく 台湾や満州などの 身内で貿易を始め 経済が回復するには これからという矢先でした。
 さらに軍にとって面白くないのは 軍事予算を減らされることでした。

 第一次大戦によりヨーロッパ諸国は
「皆で軍隊減らせば 戦争は起こらない…」そんな風潮に変わってきました。

 日英同盟により 戦勝国イギリス側に付いている日本にとって 海軍の国際会議に参加せざる負えず、当然 海軍は憤慨します。ここで面白いのは当初 軍縮を決定した当時の総理大臣は 選挙でぼろ負けし、後釜に犬養毅が総理大臣に受任しているので 殺害された犬養毅は関係ないように思われます…。 が 
いずれにせよ 世論も政治には不満があったように思われます。

五一五事件の場合
 決行総員は少なく 若い海軍将校がほとんどであり 決行総員も少なく どちらかというとテロ的要素が強い事件でした。経緯を知った世論は同情し、助命嘆願運動が起きるほどで、…

 誰一人処刑されず。すぐに恩赦で釈放されています…。


さて、それから4年後 
二二六事件が起きます… 
 同じ軍人の決行でも 五一五事件とは少し様相が違います…

天皇陛下は お怒りになります…。





 To be continued









2014年8月17日日曜日

終戦記念日 も過ぎ …日本の戦争を少しだけ遡る Ⅰ

よく、太平洋戦争のワンフレーズだけで 戦争が語られ
ある時は自虐史観となり ある時は戦争賛美ともなる…
それぞれの国の言い分もあるはずです…。
おさらいですが、おおまかに 明治以降 日本の戦争を振り返ります…。
原爆を2発も落とされ 完膚なきまで叩きのめされた敗戦までの
大きな布石が いくつもあるはずです。…。



1894年…日清戦争までの経緯



1882年 壬午軍乱(朝鮮事変) 清の従属国であった朝鮮は日本から軍事顧問を招いて改革を試みるも 親清派のクーデターにより 日本公使館が襲撃され 日本の軍事顧問が殺害されます。
 


内情は


守旧派の大院君(高宗の父)=大事党 
VS 
改革派の閔妃(高宗の妻)=開化党日本


当時の李朝は国益のことは考えず派閥抗争しか考えていなかったのでしょうか コロコロと組む相手が替わっていることが伺えます…。


軍隊の近代化を日本に見習おうとした開化派なのですが、


閔妃一派は腐敗しており、内部反乱が起こるわけです。そのことを利用し対立していた大院君が閔妃一族と多数の日本軍事顧問を殺害します。この段階で大院君の謀反は成功したかのように見えますが、今度は閔妃が清国の袁世凱にすり寄り反乱鎮圧を理由に清国軍が派遣され、大院君は閔妃に売られ幽閉されることになります…。 この時 この事件の事後処理として 日本との間で済物浦条約が結ばれ、李朝では、軍事 外交 とも 清の顧問が置かれ されに属国化していくことになります。


1884年 甲申事変 朝鮮は日本の明治維新を模範とし改革を独立派が日本からの支援を受けようとするのですが、清が鎮圧します。


内情
壬午軍乱(朝鮮事変)によって 李王朝は清の属国化が進んでいくことになるのですが、壬午事変により亡命していた金玉均(キンギョクキン)らが福沢諭吉 後藤象二郎 などの支援を受け 高宗を取り込み クーデターを起こします。閔妃一族の 悪貨乱発や神託政治 など腐敗した政策に加え、実権がまったくなかった 高宗は同意することになるわけです。当時 清国はベトナムでフランス軍と戦争中でもあり、日本の援助による立憲君主制度の確立と 維新と近代化を目指した 開化派は1884年12月4日にクーデターを起こし、成功したかのように見えたのですが、ベトナムでフランスに敗戦した清国は 朝鮮まで失うわけにはいかず、袁世凱率いる清軍を送り込み 3日で開化派の内乱を鎮圧します… 開化派は 再び 日本に亡命しますが、多くは金玉均も含め 一族もろとも処刑されます。


1885年 天津条約 日本側全権の伊藤博文と清国側全権 李鴻章(朝鮮)との間で条約を結ぶ…


内情
壬午事変や甲申事変などで 朝鮮半島を巡って 清国と日本が争うことは両国にとって得策ではないと判断…。
天津条約の要点は以下の通り


1、日清両国は朝鮮から撤退を開始すること
2、日清両国は朝鮮に対して軍事顧問の派遣をしない、朝鮮には日清両国以外の外国から数名の軍人を招致する
3、将来朝鮮に出兵する場合は相互通知を行い、派兵後をすみやかに撤退し駐留しない。


しかし、清国 袁世凱は通商事務全権委員としてソウルに残り、中国人街を形成し、朝鮮人商人を圧迫していた。


1894年 東学党の乱 朝鮮で減税を訴えた 農民 東学党が内乱を起こす 


内情
壬午事変や甲申事変 以降も
閔氏政権化 腐敗と 両班(官僚)たちの 賄賂や不正収奪の横行は止まらず、閔氏自らの手で改革を行うことは出来ず、そのつけは重税となり一般民に振られ、民衆の不満は高まり甲午農民事変に発展する…この農民たちの武力奮起に政権軍は太刀打ち出来ず、清国へ援軍を要請、結果
天津条約の相互通知により、日清両国が朝鮮出兵することになり…日本は公使館警護と在留邦人保護の名目で派兵し、清国軍と対峙することになります…。


こんな感じで…
 もともとは朝鮮内乱の鎮圧を朝鮮政府は清に援軍を頼むところから この戦争の起因が起きたようです。日本にとって 朝鮮半島がロシアなどの強い国に勢力を強いられることを警戒 当時は隣国が襲われたら 次は日本…そんな考え方だったのでしょう
 清が朝鮮に影響力を強めると 日本にとっての危機と考えたのかも知れません。ならば、清を叩いて朝鮮政府へ影響力を与える… 今のようにミサイルが有るわけでもなく、隣に強国が攻めてくれば、 
「オイもう隣の家が燃えてるよ、うちは大丈夫かよ」って そんな感じだったのでしょうか…。
 国力としては 清の方が遥かに上ですが アジアにおいて 欧米方法で近代化を進めてきた日本だけにあっさりと勝利 … 戦争期間 3か月 

下関条約…清との間で交わす内容

朝鮮半島の独立 ( 朝鮮半島は清の支配下であったということですね) ここで大韓帝国という国名になり独立宣言をします…。
日清通商航海条約を結ぶ
(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせる)
清は朝鮮半島の横にある遼東半島と台湾を譲り渡し 当時 日本の国家予算の2倍の賠償金を支払う…。日本にとって台湾は初の植民地だと考えられます…。しかし、台湾はかなりの抵抗をしているようです。台湾での日本軍戦死者2000人 日本は軍の統治から政治的統治に切り替え近代化政策を気長に打ち出すことで少しずつ鎮静化していきます…。


 ロシアにとっても魅力のある遼東半島…ロシアはフランスとドイツを誘い 日本に返還を訴えます…。日本は遼東半島を清に返還します…。ロシアも思惑があったのでしょう…
日本は
「お前ら関係ねぇーだろ でも お金と台湾もらったからー」…と言いたかったかも…
遼東半島を返還するこにより ロシア フランス ドイツ は納得し、文句を言わなくなることにより台湾の抵抗も鎮静化してきます…。

 清が日本に敗戦したことにより、列強の国々は 中国への進出が盛んになります。
「清ってアジアの強国だと思ってたけど 日本に負けた そんなに 強くない」 
 日本が返還した遼東半島の一部も ロシアに租借され ドイツ フランス イギリス も 清の至るところを租借しだしました…。当然、清も抵抗します。当時清の実質支配者である西太后は各国へ宣戦布告…結果 日本を含むロシアや列強8か国は 鎮圧のため出兵し清は 過酷な
北京議定書を受け入れる。、
 「抵抗すれば さらに厳しい条件を 受け入れる羽目に…」 武力が強い国ほど富めるという図式です。さらに中国の半植民地化は進みます…。ここで 他国が兵を引き上げる中、ロシアだけが兵を増強し満州を実質占領し さらに南下政策を推し進めようとします。
 満州の下には朝鮮(大韓帝国)があり 隣は日本です。当時、朝鮮半島は日本防衛の生命線と考えられていました。しかし 中国に多くの租借地を持っていたイギリスも ロシアの勢力拡大に難色を示し 日本と同盟を結びます。
日英同盟ですね…。当時のイギリスは世界最強です。
 日本はロシアに対して「満州の権利は認めるが、朝鮮半島の支配は日本に…」と提案しますが、決裂。ここで 日本はロシアとの開戦を決意します…。圧倒的な国力の差があり 日本は短期決戦で叩き講和に持ち込むという作戦を立てるべく 当時 日本と友好関係であるアメリカにその根回しをします…。短期決戦での勝利は アメリカの仲裁でなんとか成功…
ポーツマス条約…ロシアと
 日本の韓国における優越権や南満州鉄道の一部、あと南樺太の譲渡などです。 
日本連合艦隊VSバルチック艦隊 旅順や203高地の話は日本でも有名ですね…。
 ロシアは負けを認めず 賠償金未払い…のままですが 日本にとって朝鮮半島へのロシアの影響力は避けられます…。
 これは今頃になって お隣の国と非常にデリケートな歴史認識問題になっております… 
そんな かんだ なんだ かんだで もめてます…
 当時 ホントの話 どうだったのでしょうか…中国が 列強国に租借され続け ロシアも迫っている中 当時の韓国の国力を考えると 日本と利害が一致しても良いと思うんですが…。 
 日清戦争も日露戦争も 自衛手段として日本にとって この朝鮮半島の存在が大きく 韓国の利権を巡っての戦争と言っても過言ではなく、そのために日本は 戦死者も含め大きな犠牲を払ってます…
 戦費に関しては日露戦争において 当時の日本の国家予算が2億5000万円に対して戦費15億円… 政治的戦略(ポーツマス条約)アメリカの仲裁がなければ…どうなっていたか分かりません…
 当時、韓国は日本の生命線…おまけに世界は列強国の中に組み込まれてつつある中 韓国の国力では 到底 ヨーロッパやロシアには太刀打ち出来ない、近代国家としての外交力を求めても不可能 だからと言って韓国が西洋の植民地になれば、次は日本が危機に迫られる。日本にとって 韓国の産業の近代化が必要不可欠であったように感じます…。

 日露戦争終戦後の 
1905年…アメリカとイギリスから韓国統治の承認を受けます。
同年…
 日本の外務省を通さない限り外交交渉が出来ないという内容で、韓国は外交権を失います。
 その時 首都ソウルに統監府という統治のための機関が置かれ、その初代統監が 初代内閣総理大臣を務めたことがある 伊藤博文ですが…。 さすがに韓国の一部はこれには黙っていなかったようです。
安重根(アンジョウグン)という韓国の青年に 伊藤博文は射殺されます…
伊藤博文は韓国併合に対して唯一反対派の大物政治家だったと言われています。
皮肉な出来事です…
この暗殺がきっかけで
1910年…日韓併合条約を結び 名前を朝鮮と改められ韓国は実質的に 日本の統治下になります…。
1911年 辛亥革命
1912年 中華民国建国 ここで清は滅亡します
 きっかけは サラエボで起きた事件です。オーストリアがサラエボを併合していたのですが サラエボでオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺され オーストリアがセルビアに宣戦布告します。アジアとの境目 バルカン半島は 肌の色 思想 宗教 様々な思惑が入り乱れた地域だけに大きな紛争になっていきます…。
 ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリなど に対して 連合国 イギリス・フランス・ロシアなどが
ヨーロッパで争った戦争です
三国協商(イギリス フランス ロシアを中心とした連合国) 
VS 
三国同盟(ドイツ オーストリア イタリアなどの同盟国)

 次々と各国が参戦していますが、それぞれの参戦国には思惑があったはずです。この頃、欧州は植民地争いの激戦区だったからです。

 さて、日本は…? 参戦しています。
日露戦争以降 日英同盟を結んでいるという大義もありますが、日本が目論んでいたのはイギリスの敵国である 中国にあるドイツ基地を攻撃するこであり、中国に出兵します。日本にとって対岸の火事であり、別に日本が参戦したからと言って 何らに影響も無く 要請があった訳でも無いはずです。
 目的は中国への勢力を強め 列強国の排除…そんな感じではないでしょうか…。
まさに陣地争いですね。

このような要求を中国へ突き付けるわけですね…。

中国政府へ日本人顧問を採用すること、
旅順、大連(韓国に近い中国の土地)の租借(借りる権利)
期間や満州鉄道の租借期間の延長が盛り込まれていました。
この21条の要求や希望なので、実際中国側に認められたのは16カ条でした。
日本の勝手で要求を 中国側に突き付けたわけですがから 中国の排日運動に繋がっていきます…。

 第一次世界大戦はヨーロッパを中心に30か国以上の国が参戦し、過去の戦争は軍隊同士の戦いでしたが、この大戦から民間人も巻き込む総力戦となっていきます。

この大戦のさなか ロシアは第一次世界大戦から戦線離脱します。理由は 貧しい国民はさらに苦しみ 戦争で余計に犠牲を強いられる中で… 
1917年 レーニンの登場により革命が勃発
皇帝を処刑し世界初の社会主義国家 ソビエト社会主義共和国連邦が成立します。
この時 日本は シベリアへ出兵します…。
翌年に
1918年 日本国内では一部の商人たちが 米を買い込み(物価が上がると見込んだ)米騒動がおきます。

 また、この大戦で様々な新兵器が登場します。特に潜水艦はドイツのみしか所有しておらず この潜水艦作戦により 中立であったアメリカにまで被害が及びアメリカは連合軍側に参戦します。
 戦況はこれで一気に連合軍側に傾き ドイツ国内において反戦運動が広まることもあり 皇帝ヴィルヘルム2世は退位…。

結果、
1918年…
連合国側の勝利で終戦を迎えます。
1919年…
パリ講和会議で 戦勝国と敗戦国の間での様々な取り決め その中で ドイツに対しての条約が 

と言われるものですが、ドイツは膨大な賠償金を支払い 海外領土の没収など 過酷で厳しい条約を結ぶことになるのです…。
日本もこの時ベルサイユ宮殿まで出向き 講和会議に参加します。
ちゃっかり
ドイツ領だった、マリアナ諸島 パラオ諸島 カロリン マーシャル諸島を手に入れます。

当時の戦争はまさに陣取り合戦(権益) 勝負で負ければ大損害 勝てば大儲け そんな風に感じるのは私だけでしょうか…大雑把な感想ですけどね…。

to be continued

























2014年8月14日木曜日

お盆の渋滞 英彦山へ逃避


お墓参りへの道のりは
大体 片道100km弱
福岡市から築上町の椎田というところまで。
いつものルートだと 福岡都市高速 篠栗 八木山バイパス 築上町 椎田
家族が居ればそんな感じです。
普通の日ですと 4輪で 2時間も掛からない…


お墓の掃除は すでに完了している。
今年は家族も 入院やらで 子供たちも祖父母のところに疎開している。

お参りだけなら 二輪で向かえば 
シャシャと済む …  
のんびりと朝無精してしまい大失敗… 発ったのは午後2時近く
早朝に発てば良かったのですが…

ちょっとした ソロプチツーのつもりが
篠栗で八木山峠入口 大渋滞 
飯塚市街地 大渋滞
田川201 は 交通量は多い…

とにかく 椎田道路に向かうまで
片側一車線の道路という道路は 大渋滞… 
すり抜け すり抜け で 左側握力低下 神経消耗 そして 暑い…。


お墓に到着した頃は ヘトヘトでした。
その後
近くのファミレスで軽食を摂り、水分補給 で 1時間程休憩…。

もう、1mたりとも 渋滞の中を走りたくない…
で、帰路は
今は もう ナビにすら案内してくれない 昔からある旧道を通り
築城基地周辺方面から一気に 向こうに見える山越えを選択

英彦山超え 経由の 飯塚 八木山 と 帰路ルートを決める
地理感がないので 適当です。


川沿いの快適な道路も終わり 山登りが始まると 
このような看板を至るところで目します。
道幅も狭い上 路面も荒れ 薄暗く ヘアピンの連続で、
所々 道路脇の岩肌から 道路中央まで 妙に発色の良い コケが生してます。
だーれも居ません それでも 渋滞よりマシです。


登坂も終わり 路面もまともになってきます…。
その昔 まだ、未舗装だった頃
オフ車で通ったことがあるような記憶がよみがえります…
時は夕刻 まして 霊場として有名な英彦山です。この日はお盆お迎えの日です。
だーれも居ません
… それでも 渋滞よりマシです。


ここは天狗の山で有名ですよね…。
天狗どころが だーれも居ません 時折 キョエーという得体のしれない鳴き声が…
それでも 渋滞よりマシです。むしろワクワクします。


英彦山神宮という神社で 夕日がとても綺麗だったので ちょっとバイクを停車
お土産屋さんがありますが、全店閉まっていました。
だーれも居ません… それでも渋滞よりマシです。


道路脇に居た野生の鹿と目が合いました それも 二頭…。
一目散に山の繁みの中に逃げていきました。


ここからは 田川に向かわず 朝倉方面に向かい 飯塚経由で帰宅…遠回りですが。

結局は 
お墓参りに向かった つもりだったのですが、
帰路はちょっとした ソロツーリングになった 日でした…。




 







2014年8月13日水曜日

お盆…先祖をお向かえするために。


お盆は 先祖をお迎えし、そして 送る日です。

現代社会では お盆返上で働いてる人たちも沢山います…。

が、

お盆休みがある人たちは

先祖に近い 実家のある場所に帰省し

それぞれの地方にある お盆独特の行事に参加します…。

国民的休日であるので 休みになる人たちは多いはずですが

仏教的行事を重んじてない 人々にとっては

単なる お盆休みということで

旅行に行ったり 遊びに行ったり 家族サービスに…等々
 休暇となるので 単なる休日になるんでしょうね…



子供の頃から お盆になると

意味も分からず お墓の掃除に 親から連れて行かれ

お迎えの日だけは 拘束されていた記憶が大きいです。

信心否定をしながら 無神論者を気取っている つもりでも

習慣とは恐ろしいものです…

お盆になれば 雨が降ろうが 猛暑で汗だくになろうが

遠い場所にある 墓地に向かい 丁寧に草をむしり

お墓の掃除をする

物心ついて 一回たりとも 欠かしたことはありません…。

先祖を敬う 日本人の心だけは忘れたくありません。


このような 習慣を 次の世代まで残し

先祖が眠る お墓を守ることは

大事なことだと 思っていますが、

次世代が
もし、キリスト教や 他宗教を信心しだしたら どうなるのだろうか…
外国で暮らし 日本を忘れてしまったらどうなるのだろう…
子供の人生です…好きにお絵かきしてもらいたい。

そんなことを 考えてしまいますし、

これから 国際化の時代です。

ただ、でさえ 欧米文化に染まった我が国なのです…。



ということで

今年も 前日 お墓の掃除を済ませました。
家にある 仏壇の扉も全開にし 
先祖が迷わないよう 灯をともしました。

今日は バイクで 先祖の眠るお墓に向かうつもりです…。


お線香と 
親父が好きだった 酒(ワンカップ)と煙草を持参して…。





2014年8月6日水曜日

1945年8月6日 原爆の日

1945年 8月 6日  午前8時過ぎ

この日は 
核兵器が世界で初めて実戦使用された日です。

69年前の今日
広島に投下された一発の爆弾
当時、広島市の人口は35万人
亡くなった人たちの数は 正確に把握されてないようですが、
終戦後 昭和20年12月末段階で 投下後の急性障害も含め
14万人の方々が犠牲になられたと聞きます。
また、その後 放射線の影響で 数多く亡くなられたであろうと思います。



この日より3日後 
8月9日 11時過ぎには長崎で 2発目の原爆投下 約5万人が犠牲になる…。

子供も赤ん坊も年寄も 関係なく灼熱の炎で焼き殺されたのです。




原爆投下側の言い分
原爆被爆側の言い分

色々ありますが、勝てば官軍
勝てば正義だという歴史上の事実しかありません。

くだらないです…。

当時
我が国に残ったのは 大国に コテンパンに叩きのめされた史実だけなのです。


昨日 某新聞社が従軍慰安婦記事において誤りがあったとの告げたそうですが、
戦時中 戦争扇動を担いだ新聞社でもあったはずです。
戦後は むしろ自国への自虐史観を植え付けてきた印象があります。
いい加減に 戦後数十年も経てば 歴史の真実は紐解かれることでしょう。

敗戦直後において 旧連合軍にとって不利な資料など公開するわけがありませんよね
日本の負の部分だけが ことさら強調され
欧米諸国の脅威となることを防ぐことしか考えていなかったことでしょう。
そもそも 無条件降伏(ポツダム宣言受諾)…戦勝国にとって煮るも焼くも自由。
下手に逆らい 口答えしても 日本の復興はあり得なかったと思います。
国民は飢え 不潔な環境の中、戦後の混乱は想像を絶していたのではないでしょうか

当時は 欧米諸国の論理と国益がすべてだったはずです。

日本国は 一刻も早く自立の道へと向かうことしか考えてなかった。
国民が飢え死にするぐらいなら 
恥を忍び 大国へのご機嫌を取る選択しか手段はなかったのではないでしょうか
今の日本国憲法など大国からクレームを受けながら ほぼ言いなりになりながら 
日本の政治家と官僚たちが 少しでも日本に有利になるよう
頭脳を駆使して作成されたものだと思います。
当時の政治家や官僚たちほど 優秀であり 我慢強く 高潔な人たちは
居なかったのではないだろうか と 勝手に想像しています。


国土も狭く 資源も無く 原爆を2発も落とされた国が
ここまで復興できたのです。

ひたすら周辺諸国に優越感を与え、
ひれ伏すように頭を下げ 大国から守ってもらい
戦後、護送船団方式という 鎧を身にまとい
インフラを整え…効率的な流通網を整備し
安価で優れたものをつくり
商売で邁進した我が国なのです…
しかし
儲かれば 貿易摩擦が起き 大国から避難を浴びせられ
政治的圧力を掛けられ
控え目にすれば、史実を押し曲げてまで
未だ戦時責任を追及してくる国も居ます…。

世界史上 類を見ない核爆弾を投下された国にも関わらず
基本的な戦後体制は変わらないのでしょうが
多くの犠牲になられた方のおかげで 今の日本があることを
私たちは忘れてはいけないと思っています。



 
原爆投下によって 犠牲になられた方々へ

合掌

…。