2015年5月2日土曜日

ロートルと老機



また、鍛えねば まだまだ。…林道にて


「今度こそ 10年は乗るぞ…」
これが、
新たにバイクを購入する時の 口癖だった。

今回は 乗り続けた…。 12年だ。



通勤用でもない 

もちろん 旅人でもない

普通のサンデーライダーだ。

他人事だと思っていた10万キロ …
見える所まで来た。

2010年まで 7年間で たった3万キロしか走っていなかったのに…

何故だろうか

「もう、バイクを降りよう」 かと思っていた頃の2011年
 不思議な縁で朝駆けを始めた…。

そんな縁で知り合った人々は

お茶会程度ということで 朝9時頃解散で 軽く山中を200㎞程度

お昼ご飯前解散で 山中400km程度

お昼ご飯でのんびりして 午後2時ごろ解散で500km程度

年に一回は 「ちょっとだけハードになります」と言いながら 
下道のみで 休憩と食事時間を入れ 24時間内 余裕で走りきる1000km

(1000kmは一回だけ夏場に参加させて頂きました。この時はほんの一部 
高速道を使いました。
九州一周幹線だけで1000kmはなかなか満たないので 山中経由でした。
 突然 襲ってくる睡魔 ゲリラ豪雨 暑さ という思い出があります。
スタートして20時間位でしょうか 1000km いくかいかないかの微妙な距離でした。)

西日本であれば 知らない道は無いという位
抜け道 裏道 の連続…

皆 一生懸命仕事をし 限られた小遣いで バイクのために費やします。
飲酒は控え ミーティングでの食事は安価で済むジョイフルというファミレス…。

家族への御機嫌を伺いながら バイクに乗せてもらってる意識が強いので
バイクの買い替えなど そう簡単に出来ない
1台で16年 10数万キロ超で ようやく 奥さんから「買い替え許可」…
そんな人も居る。…

幸か不幸か 
そんな バイクで走ることが大好きな人たちと知り合ってしまった。
必要以上にベタベタとせず 言葉も交わさず 共通の価値観だけの
フランクな付き合い方が 性に合ったのかも知れない。 

距離計が伸びた理由は そんなところだ…。

極寒であろうと 怪しい天候であろうと
ほぼ 休みの日は走り回る…。
「公道はこんなにして走るんだよ…」と言わんばかりに
走ることで 無言の教授を受けたような気分だ…。

次期機種はまだ見えてこない
でも
やはり バイクは楽しい…。

速く走ることは重要でなく 上手に走る … 皆の合言葉だ。






2015年4月29日水曜日

二輪の 技術革新 (10年前のTV番組?)


10年前位のTV番組ですかね
当時
バイクの方向性は新たなる夢を模索しているようです。

動力性能から感性へ
乗り易いバイクへ
バイク業界も試行錯誤を繰り返していたんですねぇー






日本では
80~90年台に レーサーレプリカブームが起き
その 技術革新は
様々なバイクに引き継がれ

そして 今では…

ロードスポーツ車もオフロードスポーツ車も
良く動くサスペーション 扱い易いブレーキ 考え抜かれた車体剛性

また 
排ガス規制強化によって ヒューエルインジェクションを採用させ
伴うコンピューター制御の飛躍的な進歩と
耐久性の向上は 凄いスピードで進化しています。
エンジンの限界性能はもちろん
パワーや タイヤが路面に伝えるトラクションに応じた 
最適なサスペーション設定まで 電子制御という技術でリンクさせ
全体バランスは乗り手がチョイスできるという
一昔前では夢のような技術革新が起きています…。

限界性能を可能な限り 普通の人でも使えることに挑んでいるのかも知れません。


一部 いくら素晴らしいパーツを組み込んだところで
全体のバランスが悪ければ 逆効果です。


古いバイクを 今のバイクと同等の走りをするように
カスタムすることは 凄い費用を要することになるでしょうし
乗り手の技術が伴うことでしょう。


乗り手の感性を考え、バランスのとれたカスタムへの探求は
海外メーカーの方が、一枚上手だった昨今ですが、

しかし、ここ最近
日本製バイクが刺激的なモデルを続々とデビューさせているようです。
乗り手の感性を熟慮し
最高の技術とシステムを贅沢に盛り込み
楽に 転倒せず 意のままに走ることが出来ること…。
それを 目指しているようです。
いくら、素晴らしい動力性能を備えたところで
人が操れなければ 無用の長物と言えるでしょう。 


ただ、反面
そんな、一部の高価な車両を除き コストパフォーマンスを優先し
個性が軽んじられているようにも感じます。
これはこれで 商業戦略的に 仕方の無いことなのかも知れません


速い遅いとか 勝ち負けとか 
競技をしていない私にとって関係の無いことだとしても
もしも
私が 今のバイクで 30年前に戻り
公道市販されている当時のバイクを駆る上手なライダーと 峠やサーキットで
競い合ったとしたら…

当然 私は敵いません。


せいぜい  「よーい どん」 でスタートする 
先が見えないような直線… で …敵うかな…。

バイクとは そういうものだと 思っています。

しかし、
いつの日か 競技というエリアで または、公道というエリアで 
恐ろしいほどの動力性能でありながら 誰が乗っても 楽に走れ 
転倒すること無く 簡単に 曲がり、止まる 二輪が誕生するのでは…
または
化石燃料を動力源としたエンジンそのものが無くなるかも知れません。


FUN TO RIDE 一番大事なのはコレだと思います… 
いつでも乗りたくなる
どこまでも 退屈せず 走っていたい …

そんなことを 考える今日この頃です。


 
 





2015年4月25日土曜日

ちょっと 面白い 暇つぶし動画…。





速度が出ない コースとは言え面白いですね。






いっそのこと 膝プロテクターにボールローラーでも仕込んだ方が良いような気もします…。






エンデューロレースを 今はロディオと呼ぶことが多くなりましたね。
長丁場のレースは 完走率 1% とか …。




2015年4月19日日曜日

ZX-12R…80343


走り終え 積算計を見たら…

一台のバイクで 積算距離が8万kmオーバーは初めての経験です…。
(主に休日の朝走り)

まさか、こんなに乗り続けるとは…。

このバイクは
上手く乗れない 私に 次から次へと 課題を与えてくれた。
そのおかげで、こんなに走ってしまった…そんな印象が強いです。

このバイクが手元に来た時 積算距離 7700km
状態はこれ以上無い位の 良いコンディションでした。


12R以前乗っていた(X4 CB1300SF)のバイクなどは
とても良く出来た 乗り易い車両だったのですが、
新車で購入したにも関わらず、
短いサイクルで 乗り換えてきました。

 KAWASAKIというメーカーは作りが粗いというイメージしかなく
たぶん、壊れるだろうと 勝手に推測していたのですが 予想外です…。

決して、神棚に乗せるように大事に乗っていたわけでなく
労わることも無く


雨の日も 雪の日も 夏の炎天下も
主に山岳地帯を走り…
ライスクや写真撮影企画走行などで
サーキットにも4回ほど持ち込んでいます。
(サーキットでは当時1回出向いたら 20分X5ヒート位だったでしょうか
足回りへの負担も公道と比較して大きく 
エンジンも ヘッドカバーから直ぐにオイル漏れしたりもしました。)

当たり前に 消耗部品を交換し メンテナンスをしていただけなのです…
実に頑丈です。

KAWASAKIというメーカーが
公道専用車でありながら
大人の分別がないバイクを 一生懸命作っただけのことはあります。

新車時の最高性能でなく 最高耐久性(性能維持)を重視する日本製バイクです。

メンテナンスサイクルを最小限に抑えようとしたつくりに 努力の形跡は見受けられ
大きなトラブルも無く今に至ります…。

2015年 4月18日 春爛漫 良い天気でした。 

何度も何度も乗り換えを考えたんですが…。

今でも  考えています。
いや
こいつが手元に来た時から考えていたように思います…。

工業技術は日進月歩 バイクの製造技術も例外ではありません。

最近
日本バイクメーカーも 持てる技術を集約し
世界が 驚くようなバイクを次々とデビューさせています。


さすがに 最近の新型機種は
軽さや 乗り易さ 曲がり易さ 制動性能
人間工学ともいうのでしょうか
実に乗り手のことを配慮し、作られています。

もはや 過去の遺物と思われても仕方の無い
この 12Rというバイクを 
もっとも似合わない
観光という目的で使用…して終わらせる 
などと 妄想したりもしましたが、…
観光スポットは人もクルマも多いし…

一つのことに特化して作られたバイクは使用範囲が限られていると
つくづく 思い知る今日この頃です。


目標は10万キロ…厳しいです が…。











2015年3月2日月曜日

Fディスクローター交換…記録として ローター歪の影響



今回は 以前から悩んでいたフロントブレーキローターを
ようやく 交換したので 記録として ここに記したいと思います。

15年経過している
おそらく 12Rにとって初めてのフロントブレーキローター交換となります。



交換理由は歪です…。
マイクロメータでローターの厚みを計測…4.6mmでした。
max5mm minimum4.5mm
フロントブレーキのおかしな現象に最初は原因が分からず…

制動時、日に日に遊びが増えるブレーキレバー 最後はグリップに接触するほど
一時的には解消されても 走行すれば ブレーキレバーの遊び幅が増す
シール等を交換し キャリパー内のピストンの動きが良くなるほどレバーの遊び幅が増す
Fブレーキレバーを引く度 周期の長いABSのように カクカクとFフォークが暴れるようになる。

今までは 騙し騙しなんとかしていましたが、
信号等の停止などの低速時、狙った位置に完全停止が出来ないという事態にまで悪化
流石に我慢出来無くなりました…。

走行距離78500km…交換作業は1月下旬 夜間のみ

同時に ダストシール オイルシール   一部交換
マスターシリンダーの カップ スプリング  一式交換
キャリパーピストンは現状のまま使用します。 
(ピストンは全部で左右12個 一個当たりの単価2500~2900円位)

 ピストン交換する位なら 追い銭し 社外のキャリパー交換した方が良いでしょうし、
また これは個人的な理由ですが 出来得る限り12Rをオリジナルのままに保ちたい
という気持ちもありました。
現行ブレーキキャリパーはTOKIKOです。

何年か前、ブレーキキャリパーの ダスト オイルシール等の交換時 様々方法を試し
ピストンの動きを かなり探究したことがあるので
今回は 時間を掛け 独りで作業することを決意しました。
(何度も何度も この作業における順序やら 起こり得る不測の事態の対処等を
頭の中 もしくは 紙に書いて シュミレーションします。)


ネット等で調べると キャリパーを割る方法が殆どですが、
割らずとも ピストンは 寸法的に外せるので、割らずに行います。
作業は仕事があるので夜間に限られます。
まず、キャリパーを取り外します。
まだ、ホースは繋いだままにしておきます。
次にパッドを取り出し レバーを引き しっかりと目視で
動きの悪い謀反児ピストンをマークします。

ピストンバイスプライヤーだけで 引き出せるほど謀反児ピストンは甘くないです。

古いブレーキバッドを一枚だけ キャリパーの内片側に入れ 
反対側の三つのピストンのうち 
予め用意した2個の角材をキャリパー内に鋏み
一つだけピストンを遊ばせた状態で
レバーを引いて押し出せるようにします。
このようにすれば 事前にマークした動きの悪いピストンは
集中的に揉み出しが出来ます。



押し入れる時はピストンプライヤーでグリグリと回転させ 押し出す時はレバーを引く
 ダストシールもオイルシールもパーツを取り寄せているので遠慮は不要です。
とにかく 少しでもスムーズにピストンが動くようにします。
この作業を謀反児ピストンに対して順番に行います。
ブレーキホースを外す前に こうすれば 後の作業が楽です。 
頑固な謀反児ピストンには少し前に出て整列してもらいます。
(この時、キャリパー内にピストンプライヤーが入る隙間を必ず確保しておく)

ホースからキャリパーを外し、
ピストンバイスプライヤーで ピストンをグリグリと引き抜いていきます。
ついでに マスターシリンダーも外し、
Fブレーキホースのみバイクに残っている状態にします。
Fブレーキホースの両端には小さなビニール袋を輪ゴムで取り付けておきます。
( 後々面倒なことになるので垂れて汚れないように
 研磨剤の入ったクリーナーでキャリパーから外したピストンを磨き上げます。

磨いたピストンは 研磨剤が表面に付着したままでは良くないので中性洗剤で水洗いし
 シリコングリスを極力薄く塗布します。
個人的にはシリコングリスの塗布は無くても構わないと思っていますが、
余ったシリコングリスがあったので使いました。
…。

キャリパー側のオイルシールを取り外し交換します
(取り外しは どうせ新品に交換するのですから 爪楊枝で
オイルシールを抜きます 後は廃棄です。
その後 割っていないキャリパーの隙間から指を入れオイルシールを入れるのですが
この作業は結構コツを要します。爪楊枝の尻側なんかでシールの一点部分を抑え 
指でなぞって入れます。指の感触でカッチリとハマったことが分かります)
今回 試験的にダストシールやオイルシールは現行のまま使用する箇所もあります。

オイル漏れの可能性はあるかも知れませんが その時は交換するという前提です。
(私の場合 いつでも交換出来るという自信があるのですが、
本来なら全部交換した方が良いと思います)

問題はオイルシールであって ダストシールなどは 外み出てない限り
どうでも良いと思っています。
そもそも キャリパーのピストンはローターに圧力を加えるため 
ちょっぴり動いてくれれば 事足りるわけです。
必要以上にスムーズな作動幅が増えても何の意味もありません。
今まで
歪んだローターによって ピストンは必要以上に押し戻され
制動時は大きな幅で押し出されることを強いられていた訳ですから
レバーの引き幅が大きくなるのも当たり前であり
聞き分けの無いピストンが出現するのも当然といえば当然だし、
むしろ、この聞き分けの無いピストンこそが、正常作動なのかも知れない
と思ったほどです。

オイルシールはキャリパーによっては テーパー状になっている個体もあるのですが
幸い このキャリパーのオイルシールは等円筒でした。 

ついでに マスターシリンダーのカップスプリングを交換
(スナップリングワッシャーを外すプライヤーは先が長い良いツールをお勧めします。)

そもそも この12個のピストンをレバーを引くと同時に整列させるなど
不可能だということは 以前 シール類を交換した時 嫌というほど思い知りました。

一通り ピストンをキャリパーにセットしたら 
今度は 本丸ディスクローターの交換作業です。
新品ディスクローターはサンスターというメーカー製品ですが、
意外に これは純正より しっかりした作りに感じます。



ま、15年目にして初めて ディスクローターを外す訳ですから
ローターの取り付けボルトが固いことを覚悟します。
当然、ねじロック剤が効いているはずです。

6mm六角を 長めのラチェットにセットし グイッと力を掛けます

左右で計10本のボルトを外していきます ねじロック剤が良く効いています。
ディスクローターとホィールの間に緩衝シートみたいな物があるのですが、
とても 綺麗で ホィール側も腐食ひとつありませんでした。

現行のボルトにねじロック剤を塗布し 
新品ローター(サンスター製)を装着していきます。
この時 普段滅多にお世話にならない トルクレンチを使用します。
(だいたい 30Nm(3kg f m)

当たり前のことですが、ボルトの締め付け順番は対角線順ですね。
ちなみに この取り付けボルトは社外品が販売されているようですが、
交換するなら 純正品だと決めています。



カップスプリング一式新品状態の マスターシリンダーをブレーキホースにつなぎ
ステアリングに装着し ブレーキスイッチ レバーを取り付けます。

オーバーホールしたキャリパーにもブレーキホースにつなぎます。
この時 クラッシュワッシャー(バンジョーワッシャー)も交換

マスターシリンダーにブレーキフリュードを満たします
この時マスターシリンダー周辺を良く養生します…
フリュードは水に溶ける分
非常に吸湿性があり、塗装を痛めます。

丸1日ほどブレーキホースだけの状態で放置していたので
ホース内のフリュードは完全に抜け切っています。

マスターシリンダーの圧だけでは到底 ブレーキフリュードをキャリパーに
送り込むことは出来ません。
私は コンプレッサーもバキュームフリューダーも所有していません。
注射器でぇー? これは 却下ですね 無理です。

ピストンバイスプライヤーで 片側キャリパーの
6個のピストンを少しずつ引き上げ 
マスターシリンダーのフリュードを
バキュームします 
ホース内をフリュードで満たすことが目的ですが、
キャリパー内にもフリュードは流れ込んでいます。
(マスターシリンダー内フリュードの残量を確認
あとで ピストンを押して戻すので 足す場合は
溢れることがないよう加減を考える事)

その後 キャリパーのブリーダーボルトを緩め
引き上げた ピストンをユックリ押し下げていきます。
ブリーダー口の位置を上にしキャリパー下側のピストンから押し下げ
キャリパー内のエアーを逃がします
(指で押し下げるのがキツイのであれば 角材を隙間に入れて押し下げます)
この段階でキャリパー内はフリュードで 大方 満たされています。
(この時 透明のシリコンチューブをブリーダーボルトの口に はめ込み 
フリュードが飛び散らないようにすると周辺も汚れることはありません。)

左右のキャリパーで同じ作業を行い ブリーダーボルトを締めます。

新しいディスクローターを取り付けた フォイールをFフォークにセットします。
この時 アクスルシャフトは完全に締め込まず
クランプボルト(フロントフォーク下部の二本のボルド)も緩めたままにしておきます。
キャリパーのセンターにローターが位置するようにします。
この時
アクスルシャフト全体にグリスを塗り 
少しでもスムーズに横にスライドするようにしておきます

新品パッドをセットした キャリパーをフロントフォークに取り付け
軽く フロントフォイールを回します
フロントブレーキレバーを軽く引き フォイールを止めます
フォイールを回して 軽くブレーキレバーを引き 何度がこの作業をします。
片側6個もピストンがあるので 少しずつピストン頭を揃えていきます。
最終的にはレバーをしっかり引き カチッと止まるまで行います。
(この時も マスターシリンダーのフリュードの残量を確認
足した方が良いでしょう)

ちゃんと キャリパーセンターに ロータが位置しているのか確認します。
センター出しなどしなくても 普通はセンターに来るようになってるのですが、
カワサキ車なので…

リアのアクスルシャフトはトルクレンチの使用はせず かなり強く締め込んでいますが、
フロントのアクスルシャフトの締め込みには トルクレンチを使用します。

力の限り締め込んでも 鋼鉄に囲まれたインナーベアリングに影響はないだろうし
ねじ山を潰すことも よほどの怪力で無い限り不可能だと思います。
でも
フロントサスペーションの動きに影響が出る可能性はあるかも知れないので
決まったトルク値で締め込んでやるのがベストですね。
大体ですが締め付けトルクは 80から85N./,m(8〜8.5kg f)としました。
(規定より少し低いかもしれませんが 少し走ってマシ締めする予定なので)
 kgの場合は1に対して9.8N.mですね
この時も キャリパーセンターにローターが位置しているか
目視で確認しながら 徐々に締め込んでいきました。

今まで、どれほどブレーキで悩んだことか…を考えると神経質に成らざる負えませんでした。


そして エア抜きをします。
一人でエア抜きする時 左側のキャリパーはFブレーキレバーから遠いのですが
キャリパーのブリーダーボルトに メガネレンチをセットし
ブリーダー口に 透明シリコンチューブをしっかりとはめ込みます。
シリコンチューブの先は周辺が汚れないように空き缶にでも差し込みます。
右側の手で フロントブレーキレバーを握り ステアリングの隙間から
ブリーダー口にはめ込んだシリコンチューブが見える体勢をつくり メガネレンチを左側の手に握り
バイクを上から抱え込むような姿勢をとります。
ブリーダーボルトは締めた状態のまま
ゆっくりとFブレーキレバーを何度が引き ブリーダーボルトを緩めます。
レバーを引き終えたと同時にブリーダーボルトを締める
透明のシリコンチューブの中をエア混じりのフリュードが通過していくのが見えますので
エアの混入が見えなくなるまで この作業を繰り返します。
出来れば 100kmほど試走し 再度エア抜きをした方が良いと思います。

フロントメンテナンススタンドから前輪を下ろした時点で
フロンフォークがスムーズ動くかどうか 何度か押して確認後
クランプボルトを締め

マスターシリンダーにダイヤフラム 抑え 蓋を装着し
付着したブレーキフリュードを水で流して 完了。

フニャフニャタッチのブレーキタッチが 激変しました。
当然ですが、レバーの遊びも解消され その後少し試走したのですが問題無しです。
(ディスクローター変えたのだから 当たり前ですけどね…)
ま、推測通りです。

今回 一人で じっくり考えながらの作業だったのですが、
思った通りになったので とても 良い気持ちでした。

しかし 今までのブレーキタッチに何年も耐えてきたせいか
それに慣れきってしまい 
少し 私自身を 新たなブレーキのタッチに慣らさないといけないようです。

また、今回新品ブレーキパッドは 間に合わせ的に
(注文が間に合わず 近くのバイク用品店に駆け込みました)
少し、耐えれば良かったのですが、試走の誘惑には勝てず、
デイトナのゴールデンパッドを使用してしまいました。
純正を注文すれば良かったような気がします。
この ゴールデンパッドが悪いという訳ではないのですが…私は好きではありません。
ブレーキのタッチが良い分 ジワーとした効き方に感じます。
おそらく、純正ブレーキパッドに交換すると思います。

ちなみに 純正のブレーキパッドは どこが製造しているのか分かりませんが、
効き 感度 ライフ とも かなり良かったと思っています。
そして、形成もしっかりしています。
(社外品は微妙に寸法や形成に違和感を感じます。)

競技などでバイクを使用するのであれば ディスクローターに対しての
攻撃性やライフなどと引き換えに 社外パッドを使用しても良いと思いますが
私は純正で十分です。

ローターの当たりが出るまで 少し様子見です。…。

ローター交換するまでのブレーキメンテ試行錯誤





2015年2月14日土曜日

日本の戦争を遡る Ⅷ … 

第二次世界大戦以降 当事国でなくとも内線や紛争 または 参戦した国を除くと 何カ国ぐらいあるのでしょうか…。
意外に これをはっきりと答えることが出来る人は少ないと思います。

我が国においても
良く憲法9条について 改憲派と護憲派 とで意見が分かれ
この9条に関して GHQからの押し付けなのか 否なのか…までもが
論じられることもしばしば有りますが、
今だから このような勇ましいことが論じ合えるのであり 当時は日本国存続のため
いかなる要求も 断ることは出来なかったはずでしょう。

私的に想像すれば ポツダム宣言を受理した以上 押し付けられても文句は言えない
立場だったはずです。




 当時 
GHQとしては 日本国民の活力 自主的国家再建を重視していたことは事実だと思います…。
つまり、天皇制の維持を継続するという気持ちは GHQ側としては強かった
また、当時の日本も天皇制を維持しなくてはいけないという使命があった。
実際に他国から見れば 日本兵は「天皇陛下のため平気で死んでいく」 そのような印象が強かった。つまり 天皇陛下と戦争は不可分という考えは変えようが無かったはずです。天皇制存続のために しいては日本存続のために GHQの草案に従属せざる負えなかった

当時の日本首相は一歩間違えれば 国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟したことでしょう。

ただ、私的に思うことは 戦争放棄という制限の中で 今の平和国日本が在るということは紛れもない事実です。

最初に記した
第二次世界大戦以降 紛争も内乱も無く 武力参戦をしたことのない 数少ない国のひとつが
日本でもある訳です…。
しかし、戦後70年 今まで防衛面は アメリカの庇護の基で生きてきた日本です。そろそろ
アメリカの加護の中から独立しても良い頃なのかも知れません。

是でもなく非でもなく…。





さて、年号拾っていきます。

1939年 7月 日米通商修好航海条約破棄通告

同年   8月 独ソ不可侵条約 
  1936年(昭和11年)に日独防共協定を結んでいます。また、その後1937年11月にイタリアが加わり 翌年には満州国 スペイン ハンガリーが加わり 後の日独伊の三国同盟へと繋がっていくのですが、この当時、この三国同盟をドイツから提示され その返事を日本は迫られます。その最中に 独ソ不可侵条約が締結され 日本政府はドイツの背信行為とし抗議するも この後 ドイツとの関係は冷え切っていきます。しかし 最終的には この後 第二次世界大戦が勃発し ドイツのとてつもない強さを日本は見せつけられ ドイツと組めば将来的に安泰であるという判断から 日独伊の三国同盟(1940年10月)を日本は締結するわけです…。

1940年1月  日米通商修好航海条約 破棄
 1858年来の友好の絆となった通商修好航海条約が破棄され その代替条約の交渉も絶たれ アメリカとは無条約状態になる…この間 当時の外務大臣 野村吉三郎は駐日大使クルーと暫定協定締結を
試みるも成功せず…。

同年 3月  汪兆銘 南京国民政府 樹立
 この日 アメリカ国務長官 ゴーデルハルは 知日派の汪兆銘政権樹立を非難し日本と交戦中の重慶政府 を政府として認める声明を発表…この後 イギリス アメリカ は 重慶の蒋介石政府を借款を供与し援助し続ける

 もう、この段階で 日中戦争において アメリカと相容れないということが明らかであり、国際的強化に傾斜していく日本を止めることは出来なかったのかも知れません
… 。

この後 アメリカの 軍資 石油 の 日本に対する締め付けは一層強化されていきます…。 
        












2014年11月20日木曜日

日本の戦争を遡る…アメリカとの軋轢 Ⅶ

今、衆の解散総選挙が世間を騒がしていますが、
理由は 想像以上に経済指数が悪化したため 消費税増税の時期を1年半延期するということらしいです。
「国民の声を聞け」と普段から言っているマスメディアなのですが、「国民の声を聞こう」という解散総選挙においては批判が多いようです。 いずれにしても せっかく 民主主義の国に生まれ 国民の代表であるそのトップが 民意に問いたいと言っています。 日本国民として選挙に行くべきであり 白紙委任状を託す訳にはいきませんよね…。

色々と 戦争のことを調べているうちに
やはり 大事なのは 政治であり、大事なのは外交であることが分かってきます。
国民が貧しくなるのも 豊かになるのも 政治次第であり、その礎となるのは国民です。
飽食の時代に育ったせいなのか 政治や近代の歴史観などに 興味も無い時代もありました。
恥ずかしいことです…。 

少しづつですが、年号を拾っていきます。

1938年  11月3日 第二次近衛声明 … 
世界列強がブロック経済を確立している中、自存自衛のため 日本 満州 中国(支那)の 防衛、経済統合を実現しようとした 東亜新秩序を主張します。 これが 後の 大東亜共栄圏 構想の下地となるわけです。

日中交戦中の状況の中 作戦上の封鎖地域等における 第三国の中国権益をめぐる軋轢は避け難い状況になり…当然のように 在英米との抵触事例は起きてきます。

1938年 10月6日…アメリカ国務長官 ゴーデル ハルより対日抗議として覚書が送られてくることになります。「日本軍占領地域において 差別的な為替管理 専断的な関税改正 特殊会社の設立による門戸解放主義の破壊により アメリカ国民の機会均等主義がはく奪されている…という内容です。
同年  11月18日 日本側の回答として 当時の有田八郎外相は 「支那事変という非常事態において門戸解放主義という観念的原則を文字通り尊守することはできない」 と反論…
この時点で、日本は九ヶ国条約とワシントン体制を公式に否認したことになってしまいます。
 
さて、中国では日本軍の南京攻略前に逃げ出した蒋介石は 漢口から 重慶を首都と定め身をひそめているのですが、当時 重慶においては 蒋介石と 異を唱えていた 汪兆銘 は 日本との和平を画策をします。

使者による中国側の提起は

1、和平工作は樹立されれば 即刻 汪兆銘は同志と ともに重慶を脱出し、昆明(こんめい)へ赴く。
2、汪兆銘の昆明到着後、日本側は日華和平解決条件を公表する。
3、汪兆銘は蒋介石との関係断絶を表明し、ハノイを経由し香港に向かう。香港で日本との東亜新秩序建設の建設協力と反蒋介石を表明する。
4、この声明に呼応して雲南と四川軍は反蒋介石独立し、これに日本軍が協力する。汪兆銘は雲  南、四川等の日本軍未占領地域に新政府を樹立する。
5、新政府は東亜新秩序建設と日華提携の政策を発表し、平和運動を開始する。
6、新政府の軍隊は5師団~10師団とし、教官は日本より招聘(しょうへい)する。

調整後の要点は

日華両国が 東亜新秩序建設のための善隣友好、共同防共、経済提携、を推進を前提とし

1、日華防共協定(日本軍駐屯地も含む)の締結
2、中国(支那)の満州国承認。
3、中国(支那)は中国内地での居住営業の自由を認め、日本の在華治外法権の撤廃、租界の返  還を考慮する。
4、防共駐屯地以外の日本軍は平和回復後、即時撤退、中国内地の治安回復とともに 2年以内に撤兵を完了する。

等を挙げ、日本政府が上記内容を発表する条件に、汪兆銘は蒋介石と絶縁し、新政府を樹立するという内容です。

このような条件に基づき 第三次近衛声明が発表されことになるのです。

汪兆銘は和平工作に踏み切ります…。
重慶に留まるだけでは 中国(支那)の多くの地域が日本軍に占領され、中国人たちの政府が無く、自国民にとって不幸なことだと考えた汪兆銘は蒋介石と絶縁し、命懸けで重慶から脱出し、時間を掛けながら日本軍を中国から撤退させようとした思惑がありました。

そして、
1938年12月22日 … 第三次近衛声明 汪兆銘との協定を発表(汪兆銘が指定した日時) 

しかし、この時、声明の中で士気に関わるという理由で日本軍の撤兵の条項は省かれます。 撤兵を重視していた汪兆銘はひどく失望したということです…。それは この撤兵という言葉こそが中国各省の心を動かすキーワードに成り得たのではないでしょうか…。
この2週間後 近衛内閣は総辞職し 平沼騏一郎内閣に受け継がれていきます。

同年  12月25日 アメリカは蒋介石への援助を発表 。

その理由は日本の9ヶ国条約とワシントン体制への批判…そして、日本の日中(支)対策姿勢への反対を表明します。

同年  12月29日

近衛第三次声明に呼応するように、汪兆銘は重慶の国民政府蒋介石に和平工作に提議するよう通電を発信します。 その内容は 中国の主権と独立を尊重すると明言した第三次近衛声明を信頼し日華和平の交渉に入るべきと述べ…

「中国(支那)の交戦と目的は 国家の存続と独立である。正義と合致する平和で戦争を収束できるなら、国家の生存と独立は保持できるのであるから 日中(支)抗争の目的は達成されたのである」 と 日華永久平和の確立を訴えます。

汪兆銘の和平提言は 率直に正義漢と勇気に満ちた決断と思われるのですが、蒋介石は汪兆銘を売国奴として 党の永久剥奪を決議します…。また、後の汪兆銘に対する評価は 中国、台湾において日本に寝返った人物として非常に低いようです…

汪兆銘が懸念していたのは 対日抗争の間に中国(支那)共産党が勢力を広げることであり、国民党が体力を消耗し、共産党に中国が支配されることであり、この後の歴史により その懸念は的中したようです…。

1939年…1月 アメリカは日本に対して航空機及び部品の道義的禁輸
 同年…… 2月 アメリカの クレジット禁止という対日経済制裁

汪兆銘の誤算…戦争収束どころか東亜新秩序画策も機能せず。

1939年3月21日…汪兆銘は重慶を脱出して フランス領土ハノイに到着するも 重慶政府が和平提議に報いるため送り込んだ工作員からテロ襲撃を受け 九死に一生を得ます。
汪兆銘の和平提議に呼応し決起すると思われていた 雲南 四川 の領将たちは 蒋介石の中央軍に牽制され動けず また 日本軍に占領されていない諸省ですら一兵たりとも動かず、汪兆銘の重大な誤算が生じ、ハノイに滞在することも危険になり 日本占領化の上海へと 5月6日に脱出します。その後、訪日し日首相および日外相へ中国の独立を訴え 後に 上海で政府樹立活動を行い 北京政府樹立をさせるのですが…アメリカは承認せず、逆勢力である蒋介石の重慶政府を承認します。

同年  5月~9月 … ノモハン事件 満州国モンゴル人民共和国との国境紛争

ソ連との国境紛争の一つであり  その中でももっとも大きな戦闘規模だったようです。
満州国は 日本の傀儡国家 モンゴルはソ連の後ろ盾による独立国家 実態は日本陸軍とソ連の紛争で 結果 日本は一個師団を失い、ソ連も大打撃を受け 9月16日に停戦協定により収束。
ソ連は この2日後 ポーランド侵攻を開始(第二次世界大戦)します。

このノモハン事件により 日本軍は一個師団を失ったにも関わらず 現代戦における 火力 機械力等の物的戦力 物的破壊力を十分に承知しながら その認識をせず 依然として 白兵戦主義や精神主義戦力の過信から脱却できず、後の大戦における敗因と同時に多大な犠牲を払うことになります…。

同年 6月14日  天津英租界封鎖事件

もともと 天津の英租界地は その特権を利用し、国民党 共産党 濫衣社 などの抗日ゲリラやトロリストの潜伏を黙認していました。租界内の銀行に国民党の莫大な資金を蓄えさせるなど 日本軍に作戦上不利な状況を与えており 北支那軍や現地居留日本人から反感を買っていたのです。
そんな時、4月に中華民国臨時政府によって任命された海閑監督(税関高官)が この租界地で暗殺され、その4人の犯人は英国によって逮捕されるものの、その犯人の身柄引き渡しに英国が応じず。その後の話し合いも平行線をたどり、現地北支那軍参謀長が6月7日まで引き渡せと通告するものの、英国は応じないため 参謀長は封鎖という強硬手段を遂行…電流入り有刺鉄線で租界地を囲み 出入りする英国人の身体検査を敢行し、公衆の面前で丸裸にされた英国人もいたようです。その後英国側は身柄引き渡しに応じようとしますが、今度は現地日本軍側が拒否し この際 徹底的に英国人を服従させようとするのです、英国側もその高慢で理不尽な対応を非難し始めます…結果、日本外相 有田八郎と駐日大使ロバートクレーギー の間で 会談が行われ 日支交戦の現状を察し抗日共産分子の取り締まりを認めるなど 英国側が譲歩した形で協定を締結し決着します…。アメリカはこの英国の対日融和措置に対して不服の意を示します。

それから4日後

同年 7月26日  日米通商修好航海条約破棄通告(失効は翌年1月26日)

支那事変以降 原油 銅 機械類 航空機原料 屑鉄 そのような生産用材料が輸入素材の4割を占め その供給源はアメリカであり、アメリカ側からすれば 好きな時に対日貿易を制限し合法的に停止できるという訳です…。

同年 9月 欧州では大戦へと(第二次世界大戦)…。