2012年8月30日木曜日

湖畔で遊ぶ 8月26日 sunday



大分USAより Long Vacation を経て
家族たちが帰ってきました。
皆 真っ黒に日焼けしている
主に 野良仕事(野菜作り)をしてきたようで…夏野菜持ち帰っている

夏休み最後の休日だし
普段、バイクに乗せてもらっているので
少しぐらい チビたちの世話をしなくては 
なーんて 良いカッコしてるようで 実はご機嫌を取る…。

この日の早朝 バイクで朝駆けを済まし
150km位走ったのですが、
これから 一日が始まる そんな気分です。

暑い休日昼下がりは
近くの公園に足を運ぶと 人 クルマ で たいそう 賑わってます…
近所の ファーストフード店など行くと
人 子供 で埋まりそうです

そこで

うちのチビが補助輪付き自転車を好きなだけ乗れる 
そんな ゾーンに 向かうことにしました。
クルマにチビと私の自転車を積み込み いざ 出撃 
ある湖畔に…
 
そこは 森で覆われ 湖畔を周回する サイクリングサーキットロードがあります。
普段は 私にとってその脇をバイクで通過するだけのポイント。


トワイライトなトンネルがいくつもあります
私は後続を走ります。


 
途中 いくつもこのような遊具 があります。
うちのチビは楽しくで しょうがないようですが…。

休日だというのに 人がとても少ない

 

街の喧騒とは無縁の静寂の中 
聞こえるのは 鳥のさえずり そして風の音(ね) 


森の匂い と 木漏れ陽の感触



さー、どっち行く 自分で決めてくれ (笑)


橋に木が巻きついているし

ホント たまに 出会う自転車の親子連れ

それでも
こんな 光景の中では ホントに人間の親子なのだろうか
もしかしたら タヌキの親子だったりして

 親子で二人乗りの自転車が 我々を抜きコーナーに消えていく

我々は追い掛けコーナーを曲がる なんと、 長い直線にも関わらず 
我々を抜いていった親子連れが見えない 

自転車だけ が道路脇の木に立てかけられている
タヌキの化かされたかー 

 

でも チビと2台だけのサイクルロードは 楽しい

 チビと一緒に居たいので 
そろそろ、バイクを降りて良いかなぁー 
なんて頭をよぎります

北山湖 県民の森 サイクルロード
だいたい、一周 6km位
 
アップ ダウンもあり 登りに差し掛かると チビは自転車を押すというより
カゴの部分を引っ張って 悪戦苦闘していました

それでも ちゃんと最後まで走り切り 満足のご様子。

不思議なもので あまり、人の気配を感じなかったにも関わらず
途中 キャンプ場があり、けっこう家族連れが居ました
しかし、談笑というか あまり 声が聞こえないし…

もしかしたら タヌキ キツネ が 化かしていたかも
なーんて 想像は膨らみます。

一周終わった頃
自転車ステーションは係りの人も 居ないし
自転車置き場も鍵が閉まっている

駐車場には 私のクルマ1台だけでした…。














2012年8月15日水曜日

終戦記念日 67回目


父親は当時 旧制中学の生徒で、学校で 
竹槍を持たされ突く練習をさせられていたらしい
何故、勉強をすべき学校でこんなことをしなくてはいけないのか疑問に思っていたらしい
もう、今は居ない 両親たちが たまに戦時中の話をしていたことを
思い出します。

終戦によって
竹槍の練習をすることがなくなる 
「それだけで、ホッとした」と 父が語っていた
かなり保守色が強い学校だったにも関わらず
リベラル派だったのだろうか…?

母親も 女学校時代であり 戦闘機の部品を作らされていたらしい
ただ、父親と違うのは
自分がやらされていることに何の疑問も持たず
天皇陛下の玉音放送を聞き 悔しくて 泣いたらしい

当然 私が生まれる 遥か前のことだ。

私は 戦争を知らない世代であり
戦争の是非など語る資格はありませんが
たまたま 私が生まれて 今まで 日本は戦争も無く平和だったということ
ついつい 平和が当たり前だと思いがちですが
戦時中 亡くなった人たちが もし 今の世の中を見たら
どう、思うだろうか そんなことを考えてしまいました。



終戦記念日である今日
戦争で亡くなった多くの人たちへ悼みたいと思います。










 



2012年8月9日木曜日

長崎 67年前の11:02

世界では太平洋

当時
日本では大東亜

原爆を投下した側の言い分 日本本土戦闘を避けるため 早期決着のため…

原爆を投下された側の言い分 大国としての誇示 人体実験…

 広島    ウラン型
    長崎   プルトニウム型

投下した側も 投下された側も 言い分は様々あるでしょう
早期決着 うんうん そうですね…
新たな兵器の威力を試したかった うんうん それもあるでしょうね…
白色人から見れば 有色人の命は軽かった うんうん あるでしょう…

でも
そんなこと
戦争のもとでは 是も非もないのですよね…
公に認められた 国が認めた 殺し合いなのですから
大義など事後付けOKなのです…。

一瞬にして 7万人もの命が消え 後も 放射能が人の命を奪っていく

広島原爆投下から3日後に長崎にプルトニウム型原爆が投下。
その名は ファットマン

広島原爆投下後 米国は 我が国に無条件降伏を要求し それを飲まなければ 
第2の原爆を落とすと警告したということらしいです。
日本の大本営は広島の
惨状を一切公表せず 黙殺した

黙殺というより それしか方法がなかったのではないでしょうか
御前会議という日本の伝統的な政治形態は 時間が掛かる
広島から長崎 たった3日の猶予期間などあって無いようなものでしょ


平和記念館に展示されている 時計の針は 11:02分で停止しています。

4000度の熱線と爆風と火災による破壊

それに続き

大気中に撒き散らされた放射能は
塵とともに上空に舞い上がり雲になり放射能を含んだ雨となり
人と大地に降りそそぐ

放射能を含んだ雨 核爆弾第二の恐怖が残留放射能という
目に見えない化物になり
細胞を破壊し 急性白血病やガンが命を奪っていく…。




私は戦後に生まれ 飽食の時代に育った世代ですので
戦争の是非など語る資格はありませんが…


有名な写真を1枚


「焼き場に立つ少年」

米従軍カメラマン ジョー オダネル 氏 

長崎原爆投下後 破壊力を撮影するかたわら 個人的に 軍に内密で撮影

背負っている 絶命した幼児を焼いてもらうため
 順番を待っている 少年の姿






 





2012年8月6日月曜日

67年前の 8:16

67年前の今朝

広島 閃光瞬走 爆弾が投下されました。

14万人の命が 一瞬で消えたと言われます。

天災と違い 

人が人に対し 「明確な殺意」をもって投下した

その名は リトルボーイ

繰り返されてはいけない 悲劇


なぜか メディアでの扱いが小さい

感覚で理想や夢を語ることも 大事なのかもしれない
歴史を捻じ曲げ 事情を無視し 都合の良いように思想信条を主張することも自由選択です。

しかし、

真実はひとつである と同時に 様々な側面があります。

 … 歴史を知ることの大切さ

たとえ 愚かな極みが史上に存在していたとしても 

歴史に学んでこそ明るい未来があるはずだと

信じたいものです。 


武器としての核開発に明け暮れていた
冷戦時代の大国たち
もっとも 安価でてっとり早く核武装という国防に貢献させようとした武器の時代から

そして


人類の生活に豊かさを与え 貢献させようとする試み 原子力…
しかし、 それも
東電 福島原発事故以来 警鐘が…鳴っています。
やはり
人間の力ではこの大きなエネルギーは抑止出来ないのだろうか…



ただ、

この日だけは

反原発派も 原発容認派も

原爆投下によって 犠牲となった 沢山の命に対し

黙祷を捧げるべきでしょう…



合掌



PS

相変わらず 猛暑が続いていますが、
エアコンはなるべく控え
休みの日は 涼を求め
早朝の山々を バイクでCO2を撒き散らし走ってます…。

バイクやクルマに乗り
また
冷蔵庫でキンキンに冷えたビールを頂き
オリンピックをTVで楽しんでる以上

環境問題について あれやこれやと言う資格の無い 

今日このごろです。