第二次世界大戦以降 当事国でなくとも内線や紛争 または 参戦した国を除くと 何カ国ぐらいあるのでしょうか…。
意外に これをはっきりと答えることが出来る人は少ないと思います。
我が国においても
良く憲法9条について 改憲派と護憲派 とで意見が分かれ
この9条に関して GHQからの押し付けなのか 否なのか…までもが
論じられることもしばしば有りますが、
今だから このような勇ましいことが論じ合えるのであり 当時は日本国存続のため
いかなる要求も 断ることは出来なかったはずでしょう。
私的に想像すれば ポツダム宣言を受理した以上 押し付けられても文句は言えない
立場だったはずです。
当時
GHQとしては 日本国民の活力 自主的国家再建を重視していたことは事実だと思います…。
つまり、天皇制の維持を継続するという気持ちは GHQ側としては強かった
また、当時の日本も天皇制を維持しなくてはいけないという使命があった。
実際に他国から見れば 日本兵は「天皇陛下のため平気で死んでいく」 そのような印象が強かった。つまり 天皇陛下と戦争は不可分という考えは変えようが無かったはずです。天皇制存続のために しいては日本存続のために GHQの草案に従属せざる負えなかった
当時の日本首相は一歩間違えれば 国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟したことでしょう。
ただ、私的に思うことは 戦争放棄という制限の中で 今の平和国日本が在るということは紛れもない事実です。
最初に記した
第二次世界大戦以降 紛争も内乱も無く 武力参戦をしたことのない 数少ない国のひとつが
日本でもある訳です…。
しかし、戦後70年 今まで防衛面は アメリカの庇護の基で生きてきた日本です。そろそろ
アメリカの加護の中から独立しても良い頃なのかも知れません。
是でもなく非でもなく…。
さて、年号拾っていきます。
1939年 7月 日米通商修好航海条約破棄通告
同年 8月 独ソ不可侵条約
1936年(昭和11年)に日独防共協定を結んでいます。また、その後1937年11月にイタリアが加わり 翌年には満州国 スペイン ハンガリーが加わり 後の日独伊の三国同盟へと繋がっていくのですが、この当時、この三国同盟をドイツから提示され その返事を日本は迫られます。その最中に 独ソ不可侵条約が締結され 日本政府はドイツの背信行為とし抗議するも この後 ドイツとの関係は冷え切っていきます。しかし 最終的には この後 第二次世界大戦が勃発し ドイツのとてつもない強さを日本は見せつけられ ドイツと組めば将来的に安泰であるという判断から 日独伊の三国同盟(1940年10月)を日本は締結するわけです…。
1940年1月 日米通商修好航海条約 破棄
1858年来の友好の絆となった通商修好航海条約が破棄され その代替条約の交渉も絶たれ アメリカとは無条約状態になる…この間 当時の外務大臣 野村吉三郎は駐日大使クルーと暫定協定締結を
試みるも成功せず…。
同年 3月 汪兆銘 南京国民政府 樹立
この日 アメリカ国務長官 ゴーデルハルは 知日派の汪兆銘政権樹立を非難し日本と交戦中の重慶政府 を政府として認める声明を発表…この後 イギリス アメリカ は 重慶の蒋介石政府を借款を供与し援助し続ける
もう、この段階で 日中戦争において アメリカと相容れないということが明らかであり、国際的強化に傾斜していく日本を止めることは出来なかったのかも知れません
… 。
この後 アメリカの 軍資 石油 の 日本に対する締め付けは一層強化されていきます…。