2014年11月20日木曜日

日本の戦争を遡る…アメリカとの軋轢 Ⅶ

今、衆の解散総選挙が世間を騒がしていますが、
理由は 想像以上に経済指数が悪化したため 消費税増税の時期を1年半延期するということらしいです。
「国民の声を聞け」と普段から言っているマスメディアなのですが、「国民の声を聞こう」という解散総選挙においては批判が多いようです。 いずれにしても せっかく 民主主義の国に生まれ 国民の代表であるそのトップが 民意に問いたいと言っています。 日本国民として選挙に行くべきであり 白紙委任状を託す訳にはいきませんよね…。

色々と 戦争のことを調べているうちに
やはり 大事なのは 政治であり、大事なのは外交であることが分かってきます。
国民が貧しくなるのも 豊かになるのも 政治次第であり、その礎となるのは国民です。
飽食の時代に育ったせいなのか 政治や近代の歴史観などに 興味も無い時代もありました。
恥ずかしいことです…。 

少しづつですが、年号を拾っていきます。

1938年  11月3日 第二次近衛声明 … 
世界列強がブロック経済を確立している中、自存自衛のため 日本 満州 中国(支那)の 防衛、経済統合を実現しようとした 東亜新秩序を主張します。 これが 後の 大東亜共栄圏 構想の下地となるわけです。

日中交戦中の状況の中 作戦上の封鎖地域等における 第三国の中国権益をめぐる軋轢は避け難い状況になり…当然のように 在英米との抵触事例は起きてきます。

1938年 10月6日…アメリカ国務長官 ゴーデル ハルより対日抗議として覚書が送られてくることになります。「日本軍占領地域において 差別的な為替管理 専断的な関税改正 特殊会社の設立による門戸解放主義の破壊により アメリカ国民の機会均等主義がはく奪されている…という内容です。
同年  11月18日 日本側の回答として 当時の有田八郎外相は 「支那事変という非常事態において門戸解放主義という観念的原則を文字通り尊守することはできない」 と反論…
この時点で、日本は九ヶ国条約とワシントン体制を公式に否認したことになってしまいます。
 
さて、中国では日本軍の南京攻略前に逃げ出した蒋介石は 漢口から 重慶を首都と定め身をひそめているのですが、当時 重慶においては 蒋介石と 異を唱えていた 汪兆銘 は 日本との和平を画策をします。

使者による中国側の提起は

1、和平工作は樹立されれば 即刻 汪兆銘は同志と ともに重慶を脱出し、昆明(こんめい)へ赴く。
2、汪兆銘の昆明到着後、日本側は日華和平解決条件を公表する。
3、汪兆銘は蒋介石との関係断絶を表明し、ハノイを経由し香港に向かう。香港で日本との東亜新秩序建設の建設協力と反蒋介石を表明する。
4、この声明に呼応して雲南と四川軍は反蒋介石独立し、これに日本軍が協力する。汪兆銘は雲  南、四川等の日本軍未占領地域に新政府を樹立する。
5、新政府は東亜新秩序建設と日華提携の政策を発表し、平和運動を開始する。
6、新政府の軍隊は5師団~10師団とし、教官は日本より招聘(しょうへい)する。

調整後の要点は

日華両国が 東亜新秩序建設のための善隣友好、共同防共、経済提携、を推進を前提とし

1、日華防共協定(日本軍駐屯地も含む)の締結
2、中国(支那)の満州国承認。
3、中国(支那)は中国内地での居住営業の自由を認め、日本の在華治外法権の撤廃、租界の返  還を考慮する。
4、防共駐屯地以外の日本軍は平和回復後、即時撤退、中国内地の治安回復とともに 2年以内に撤兵を完了する。

等を挙げ、日本政府が上記内容を発表する条件に、汪兆銘は蒋介石と絶縁し、新政府を樹立するという内容です。

このような条件に基づき 第三次近衛声明が発表されことになるのです。

汪兆銘は和平工作に踏み切ります…。
重慶に留まるだけでは 中国(支那)の多くの地域が日本軍に占領され、中国人たちの政府が無く、自国民にとって不幸なことだと考えた汪兆銘は蒋介石と絶縁し、命懸けで重慶から脱出し、時間を掛けながら日本軍を中国から撤退させようとした思惑がありました。

そして、
1938年12月22日 … 第三次近衛声明 汪兆銘との協定を発表(汪兆銘が指定した日時) 

しかし、この時、声明の中で士気に関わるという理由で日本軍の撤兵の条項は省かれます。 撤兵を重視していた汪兆銘はひどく失望したということです…。それは この撤兵という言葉こそが中国各省の心を動かすキーワードに成り得たのではないでしょうか…。
この2週間後 近衛内閣は総辞職し 平沼騏一郎内閣に受け継がれていきます。

同年  12月25日 アメリカは蒋介石への援助を発表 。

その理由は日本の9ヶ国条約とワシントン体制への批判…そして、日本の日中(支)対策姿勢への反対を表明します。

同年  12月29日

近衛第三次声明に呼応するように、汪兆銘は重慶の国民政府蒋介石に和平工作に提議するよう通電を発信します。 その内容は 中国の主権と独立を尊重すると明言した第三次近衛声明を信頼し日華和平の交渉に入るべきと述べ…

「中国(支那)の交戦と目的は 国家の存続と独立である。正義と合致する平和で戦争を収束できるなら、国家の生存と独立は保持できるのであるから 日中(支)抗争の目的は達成されたのである」 と 日華永久平和の確立を訴えます。

汪兆銘の和平提言は 率直に正義漢と勇気に満ちた決断と思われるのですが、蒋介石は汪兆銘を売国奴として 党の永久剥奪を決議します…。また、後の汪兆銘に対する評価は 中国、台湾において日本に寝返った人物として非常に低いようです…

汪兆銘が懸念していたのは 対日抗争の間に中国(支那)共産党が勢力を広げることであり、国民党が体力を消耗し、共産党に中国が支配されることであり、この後の歴史により その懸念は的中したようです…。

1939年…1月 アメリカは日本に対して航空機及び部品の道義的禁輸
 同年…… 2月 アメリカの クレジット禁止という対日経済制裁

汪兆銘の誤算…戦争収束どころか東亜新秩序画策も機能せず。

1939年3月21日…汪兆銘は重慶を脱出して フランス領土ハノイに到着するも 重慶政府が和平提議に報いるため送り込んだ工作員からテロ襲撃を受け 九死に一生を得ます。
汪兆銘の和平提議に呼応し決起すると思われていた 雲南 四川 の領将たちは 蒋介石の中央軍に牽制され動けず また 日本軍に占領されていない諸省ですら一兵たりとも動かず、汪兆銘の重大な誤算が生じ、ハノイに滞在することも危険になり 日本占領化の上海へと 5月6日に脱出します。その後、訪日し日首相および日外相へ中国の独立を訴え 後に 上海で政府樹立活動を行い 北京政府樹立をさせるのですが…アメリカは承認せず、逆勢力である蒋介石の重慶政府を承認します。

同年  5月~9月 … ノモハン事件 満州国モンゴル人民共和国との国境紛争

ソ連との国境紛争の一つであり  その中でももっとも大きな戦闘規模だったようです。
満州国は 日本の傀儡国家 モンゴルはソ連の後ろ盾による独立国家 実態は日本陸軍とソ連の紛争で 結果 日本は一個師団を失い、ソ連も大打撃を受け 9月16日に停戦協定により収束。
ソ連は この2日後 ポーランド侵攻を開始(第二次世界大戦)します。

このノモハン事件により 日本軍は一個師団を失ったにも関わらず 現代戦における 火力 機械力等の物的戦力 物的破壊力を十分に承知しながら その認識をせず 依然として 白兵戦主義や精神主義戦力の過信から脱却できず、後の大戦における敗因と同時に多大な犠牲を払うことになります…。

同年 6月14日  天津英租界封鎖事件

もともと 天津の英租界地は その特権を利用し、国民党 共産党 濫衣社 などの抗日ゲリラやトロリストの潜伏を黙認していました。租界内の銀行に国民党の莫大な資金を蓄えさせるなど 日本軍に作戦上不利な状況を与えており 北支那軍や現地居留日本人から反感を買っていたのです。
そんな時、4月に中華民国臨時政府によって任命された海閑監督(税関高官)が この租界地で暗殺され、その4人の犯人は英国によって逮捕されるものの、その犯人の身柄引き渡しに英国が応じず。その後の話し合いも平行線をたどり、現地北支那軍参謀長が6月7日まで引き渡せと通告するものの、英国は応じないため 参謀長は封鎖という強硬手段を遂行…電流入り有刺鉄線で租界地を囲み 出入りする英国人の身体検査を敢行し、公衆の面前で丸裸にされた英国人もいたようです。その後英国側は身柄引き渡しに応じようとしますが、今度は現地日本軍側が拒否し この際 徹底的に英国人を服従させようとするのです、英国側もその高慢で理不尽な対応を非難し始めます…結果、日本外相 有田八郎と駐日大使ロバートクレーギー の間で 会談が行われ 日支交戦の現状を察し抗日共産分子の取り締まりを認めるなど 英国側が譲歩した形で協定を締結し決着します…。アメリカはこの英国の対日融和措置に対して不服の意を示します。

それから4日後

同年 7月26日  日米通商修好航海条約破棄通告(失効は翌年1月26日)

支那事変以降 原油 銅 機械類 航空機原料 屑鉄 そのような生産用材料が輸入素材の4割を占め その供給源はアメリカであり、アメリカ側からすれば 好きな時に対日貿易を制限し合法的に停止できるという訳です…。

同年 9月 欧州では大戦へと(第二次世界大戦)…。