2014年9月15日月曜日

日本の戦争を遡る 日中戦争 北支事変 または支那事変 Ⅴ 

 日本は 森と水の国です…それだけでも十分な資源と言えます。
人々も 自然界の営みに合わせ 季節と共生しながら生活しています。
 個人的には 年度が変わる桜の季節は大好きです…
「花は桜木 人は武士」 有名な言葉ですね… 
美しさの絶頂で迎える見事な 散り際…日本人の精神論にまで結びついた言葉です…。

 我が国日本の近代史において是非はあるでしょうが それを直視し、祖国に誇りを持ちたいものです…。しかし、この祖国愛が 時として国同士の争いに繋がっていくことも事実です…
 近代史で一部の年号と拾い上げたような出来事だけでは、一連の流れなど把握出来ないだろうし…自虐史を作成しようという思惑であれば負の部分だけを取り上げれば簡単なことであり、…また、戦争における美談だけを拾い上げ それを賛美することも滑稽に感じます。歴史を信用していると言えば嘘になりますが、その時々の参考文献や所見に その主要人物の言葉などを照らし合わせれば 当時の状況のほんの一部ぐらいは想像できるかも知れません。

1921~22年…日英同盟破棄(ワシントン会議) 代わりに英日米仏4か国協定締結
1922年…9ヶ国条約
1922年…ソビエト連邦設立 スターリンソ連共産党書記長就任
1922年…日本共産党設立
1923年…関東大震災
1924年…アメリカでは排日移民法    参考 オレンジ計画 
1924年…北京政変
1924年…11月24日モンゴル人民共和国がソ連に続く社会主義国家とし独立
1925年…治安維持法公布普通選挙制定 中国では孫文死去
1926年…12月25日 大正天皇崩御 昭和天皇即位  中国では国民党軍の北伐開始 

1927年…日本では…
4月…田中義一内閣発足、5月第一次山東出兵…
11月…蒋 田中会談…国民党政府蒋介石は来日し 田中・蒋会談が行われる(蒋介石も田中義一も共産党駆逐で利害は一致(日本は共産革命による皇室廃止という事態を恐れた 蒋介石もソ連の勢力を恐れ記者会見で「両国の一致により東亜の平和に努力するために まずは支那国民革命の完成を図り…云々…云々…共存共栄の持論ははじめて実現される…云々…」 と述べている。)

1927年…中国では…
1月…にイギリス租界奮取事件…漢口には日本 イギリス フランスの租界地があった。
2月…武漢政府樹立、3月南京事件 
4月…上海クーデター
同じく4月南京政府樹立、…南京国民政府
同じく4月漢口事件
7月国共合作終了、ここから農民 貧困層の共産党と インテリ ブルジョア層の国民党の争い始まる
12月国民党政府はソ連に国交断絶通告… 
蒋介石国民党はこの頃 国民党内部に入り込んだ共産党の排斥に全力を注ぐ…。

1928年…日本では…第二次山東出兵

1928年…中国では…
4月…日本から帰国した蒋介石は国民革命軍総司令として北伐再開…
5月…済南事件 …
前年南京事件の件もあり 日本も北伐に合わせ第二次山東出兵させ居留民保護の体制を整えるものの…蒋介石の要請を信じ防御陣営を解除したところ、蒋介石北伐軍の一部による居留民(日本人)への残虐な殺害事件が起き、周辺各地で略奪まで含むと被害者は400人にも上った。日本軍は12時間の期限付きで北伐軍責任者の処刑と 北伐軍の撤兵を要求するが、北伐軍は応じず…。日本山東派遣軍は攻撃開始から済南城を占拠…。当時の中国軍閥は馬賊や盗賊出身の寄せ集めであり 国際法尊守、軍律厳守など徹底されておらず…便衣兵による攻撃に日本軍は手を焼く…当然 便衣兵のような民間人の姿をし、民間人に紛れ攻撃することは国際法では禁止条項の一つだった。

ロンドンのデイリーテレグラフ 「中国人は略奪と殺人を天与の権利であるが如く繰り返している」「日本人の忍耐にも限界がある」「日本軍の行動は正当防衛」と論じている
フランスやアメリカの新聞 中国の外字紙も 北伐軍に問題があったとしている。
おおむね、当時の国際世論は日本に対して好意的であった…。

この頃あたりから、北伐は北京では終わらず、日本の生命線である満州にも及ぶのではないかという危機感が高まってくる そんな時 
翌6月に 張作霖爆殺事件が起きる。…国民党蒋介石に敗れ 奉天へ逃げる列車爆発事件 

その5日後 …
蒋介石国民党は北京に入りし北伐完了 その一方で 張作霖の息子 張学良は満州に進出し 蒋介石国民党の旗(青天白日旗)を掲げる…これは父 張作霖から受け継いだ奉天軍閥の旗 易幟(エキシ)でなかった…。つまり奉天軍閥は蒋介石国民党に従属したということになる。 いずれにせよ、これは満州大陸は中国の一部だという意思表示であり、これは日本軍と戦うという宣言とも受け取れる もともと満州大陸は万里の長城の外であり、清朝時代から日本権益が認められた大陸にも関わらず。この荒野が経済発展したことにより国民党は満州権益奮取 つまり「返せ…」と言い始める…その後 日本政治は中国との協調政策を重視する外交を試みるも 軍部をはじめ、満州の居留日本人や、日本国内においても 政治の姿勢に不満を抱き 満州事変につながっていく…。

1928年…8月27日 63ヶ国による不戦条約(パリ不戦条約ケロッグブリアン協定)

1929年…10月24日…世界大恐慌
アメリカのブロック経済に端を発し世界中が閉鎖貿易に走る(輸入品に大きな関税を掛け各自国の商品の保護に走る) マルクス論(共産思想)が的中したと理解するインテリ層が増え 日本の青年将校までもが 支配階級 資本家 政治家 のせいで 自分たち兵士の実家が貧しいのだと思い込み この後 五一五事件 二二六事件が起きる…。
1929年…アメリカ フランス イギリスと共同声明で不戦条約違反とソ連(中国と紛争)を非難
1930年…蒋介石国民党は共産党掃討作戦開始
1931年…6月27日 中村大尉事件
1931年…7月2日 万宝山事件
1931年…9月18日 満州事変 柳条湖事件
1932年…1月 第一次上海事変 日本海軍陸戦隊と蒋介石軍との武力衝突…3月まで戦闘は続くが5月には停戦協定成立…
1932年…満州国建立
…1934年溥儀を皇帝にします…。5民族協和政策を打ち出します。満州地域は多民族が居住しており もともとは不毛の無法地帯だったのです…。
1932年…日本では…五一五事件
政党内閣の時代は終わり…しばらく軍人か官僚出身者が首相に任命されるようになる…。
1933年…ドイツでは…1月 ヒットラー ドイツ総統に就任
1933年…2月 リットン報告書国際連盟採択
1933年…3月27日 日本国際連盟脱退
1933年…フランクリン ルーズベルト アメリカ大統領就任 … ルーズベルトは日本嫌いで有名であり、 蒋介石に莫大な支援をします…親中派なのか また この年に 何故かソ連を承認します…

 満州事変は周知の通り 関東軍が 中国軍(張学良)の仕業に見せかけた満鉄爆破事件です。 その後5カ月で満州全土を占領してしまいます…。1932年…関東軍は満州国を建立するも、中国はこれを国際連盟へ提訴。国際連盟はリットン調査団を派遣調査します…結果的に 満州国の建立は認められず 日本は国際連盟へ脱退通告するわけです… もっとも国際連盟で満州国は否認されたとはいえ、ドイツ イタリア スペイン タイ王国などの友好国 同盟国、23か国も含め それまで国境紛争を起こしていたソビエトですら不可侵を約束し公館を設置するほどで 当時の独立国60ヶ国余りの中の3分の1と国交を結び満州国は独立国として安定時代もあったようです…。

1934年…中国共産軍長征(逃避)開始…
蒋介石の共産軍掃討作戦により共産党はソ連に近い延安まで逃げ落ちる…。がその後1935年に 八.一宣言という抗日救国(協力し合い日本と戦おうという意味)宣言を打ち出す。

1933年…塘沽(タンクー)協定 …
満州事変の停戦協定…蒋介石政府(軍)との間で結ばれた協定 関税、鉄道 郵便 電信 などの協定が結ばれた…蒋介石(国民党)は中国共産党の掃討を優先し、日本軍との全面対決を避けたかった思惑が伺われます。… 日本も中国も友好関係を築こうするのですが、抗日派によりテロは続きます。

1935年…ソ連では… 1930年台後半はスターリンの大粛清時代とも言われている
第7回コミンテルン大会でスターリンが砕氷船理論の再確認をする…本当でしょうか?
砕氷船理論とは…分厚い氷を砕氷船で分け砕かせその役目を終えさせたら沈めろ…です。
 えげつない理論ですね。
ドイツでは国際連盟脱退

日本では…
1936年…1月 …ロンドン軍縮会議脱退 
2月 …二二六事件…
5月… 軍部大臣武官制度復活…陸軍大臣 海軍大臣は現役の武官でなければいけない つまり陸海軍が支持しない内閣の成立はなくなる…広田弘毅内閣が23年ぶりに復活させた制度。
日独防協定…ソ連の軍備拡大5ヶ年計画と共産党コミンテルンへの防衛策…これらが反英、反米と受け取られる…後の歴史を見れば中国もアメリカもイギリスも この共産党コミンテルンへの認識が甘かった…ということになるのか…。

1936年…西安事件…
共産党掃討に固執し、抗日に耳を閉ざしていた蒋介石(国民党)は張学良に拉致監禁される この事件により国民党は共産党と手を組み抗日共策が始まります…。

スペインでは…
1937年…4月26日 ゲルニカ空爆、フランコ将軍率いるナチスによって空爆を受ける。史上初めての無差別空爆だと言われている…犠牲者3000人(ちなみに後の東京大空襲は一夜にして10万人) いずれにしても大虐殺だと思います。 ピカソの名画 ゲルニカ は有名ですね。

1937年… 6月 近衛内閣成立

中国では…7月7日、盧溝橋事件 …当初、日本は戦線不拡大の姿勢
最初の銃撃に対して 日本軍は我慢
翌7月8日…最初の銃撃に対して日本軍我慢 2回目の銃撃(猛射)に対して応戦…
翌7月9日…停戦協議成立 7月10日…停戦に関わらず中国軍銃撃 
翌7月11日…停戦協定成立 7月13日…日本の天津砲兵隊修理班が襲撃され4名虐殺
翌7月14日…近藤2等兵惨殺 7月20日…盧溝橋城から日本軍に対して中国一斉射撃日本軍もこれに応じ盧溝橋城に対して一斉砲撃 
7月25日…廊坊事件(ろうぼうじけん)これは 廊坊の電線を修理していた日本電信隊を包囲攻撃
7月26日…公安門事件 これも北平公安門を通過中の天津駐屯日本軍に対して城壁上から乱射
7月28日…日本は戦線不拡大方針を放棄 日本軍(天津軍)は開戦を通告、全面攻撃開始
7月29日…中国軍は南へ敗走…
 ちなみに 近代では日中戦争と言われていますが、当初は北支事変 のち 支那事変と言われていました。 

 今 何かと世間を騒がしている朝日新聞ですが 当時の記事を
北支駐屯軍の演習 条約に基づく権利」(昭和12年7月10日付東京朝日新聞)
わが軍の応戦は全く自衛手段」「演習は条約上の権利」(昭和12年7月10日付大阪朝日新聞)
日本が穏健政策に立還ればすぐに図に乗ってくる、グワンとやられてやつと引込む」(昭和12年7月9日付大阪朝日新聞「天声人語」)
もともと我方から仕かけたことではなく、また仕掛けるいはれもない小ぜり合ひだ・・・向ふがひっこみさへすればそれで事態は収まるのである」(昭和12年7月10日付大阪朝日新聞「天声人語」)

7月29日…通州事件 通州で中国保安隊により日本人虐殺事件が起きる…始まりは日本の誤爆
8月9日…大山大尉虐殺事件 これは盧溝橋事件の和平工作中の事件だった。(元外交官の実業家 船津振一郎を通して蒋介石政府に和平を働きかけている最中だった) 船津和平工作
その後
第二次上海事変へと…
見解様々 歴史は戦勝国によって作られることを ひしひしと感じます。
日本としては東亜の平和と秩序を…つまり統治 それは 他の列強からの自衛手段という見解を他国へ押し付けようとしますが、相手国にとっては決してそうでは無かったということなのでしょう…。
 もう、この頃の戦争は 国力と国力の争いだけでなく、多国へ発信するプロパガンダの時代へと完全に突入した模様です…つまり情報戦だということであり 他国を巻き込むことによって 戦火は拡大していくという状況になっていきます。国の利権(国益)だけの争いよりも悲惨なのは 民族紛争であり、さらに悲惨で長期になる可能性が高い争いは 宗教を含めた思想主義の衝突だと 太古の時代から歴史が証明しています…。だから、平和のために国境線が決められたはずなのですが…。

1937年…10月 シカゴにて 隔離演説
「中立」を主張していたアメリカですが フランクリンルーズベルトはシカゴで演説をします。 要約すれば…
「世界人口の9割の平和と自由と秩序と安全の保障のための国際法は1割の人間に踏みにじられている…不幸にも世界には無秩序という病気が広がりつつある したがって その病原体を隔離しなくてはいけない」…これは ドイツや日本に対しての批判とも受け取れる内容だと言われている それはともかく 戦争への介入をほのめかす内容とも言えます。

1937年12月 … 南京攻略
12月1日…南京攻撃命令が下る 他国から避難されることを考え 無条件降伏(無防備都市宣言)を勧告をするものの、蒋介石が応じなかったため南京城に攻め込む。そして攻撃開始から3日後 あっさりと南京は陥落される…。がいち早く避難した蒋介石はすでに アメリカ イギリス ソ連の後ろ盾を得ることが出来。この後 日本と徹底抗戦の姿勢…。 

参考………………南京事件
参考………………便衣兵
参考………………督戦隊
参考………………堅壁清野(けんぺきせいや)

12月12日…パナイ号事件…日本軍のアメリカ輸送船への誤爆 たぶん根にもっていたはず。

1938年…1月16日 近衛文麿首相は近衛声明を発信
蒋介石国民党に対して和平を試みるも回答を得られず 近衛文麿は「帝国政府は国民党を相手にせず、帝国政府と真に提携するに足る新興中国(支那)政権の成立発展を願い、これと両国国交を調整し再生中国(支那)の建設を協力せんとす」 蒋介石国民党との断交宣言。

4月…国家総動員法を公布… 国民総動員体制となり、日本の自由主義は崩壊します。
国家が人的資源や物質的資源を自由に運用できることであり、国民の自由意思は認められず国家命令が経済活動を支配するということです。つまり釘一本動かすのも官僚たちの書類が必要であり、行き着くところまで行った経済統制だと思えます。
この頃は軍部の影響力が強くなる中 官僚たちの間でも右翼社会主義に傾倒し 革新官僚たちが現れ全体主義国家構想が政府を支配していきます。 
そのような革新閣僚たちが1937年10月25日に経済統制推進のために企画院を設立するわけす。そしてこの国家総動員法が翌年に企画院によって公布されるのです。
 この企画院(経済参謀みたいなもの)の生みの親は近衛文麿首相なのですが 
細川護熙 元首相のおじぃちゃんでもあるんですよねぇー…。

10月…武漢(武昌 漢口 漢陽)が日本軍によって陥落
ここで、盧溝橋事変から始まった日中の本格的な戦闘は終わり 中国各地の治安は個々の自治政府によって維持されることになると思えたのですが、今度は中国内で日本と徹底抗戦か和平かで対立、南京政府の汪兆銘 と 重慶政府の蒋介石 と 延安政府の毛沢東 で 三つ巴の対立抗争が始まります。 そこへ 日本 アメリカ ソ連 が 勢力へ加担し 内戦介入します。

11月 近衛文麿首相は2回目の声明 
東亜における(日本 中国の三国 満州)における経済統制を発信 東亜新秩序を呼びかける 日本にとって いくら出兵させても 切りが無い日中戦争の早期解決が切実な問題となり 一回目の声明を修正するのですが… この頃は世界の列強はブロック経済(自製品保護)体制状態であったので このような呼び掛けで 東亜において経済統制をしようとしたのでしょうが…
流石に 中国大陸に権益を持っている イギリス や これから権益増大を図る アメリカは 黙っちゃおりません…  


 この後 日本は日中戦争を抱えながら、アメリカと厄介なことになっていきます、当時、日本という国はアジアで唯一 列強に名を連ねるルーキーだったわけです… アジアで唯一の列強国が抱えた宿命を感じます。アジアの代表として東亜の平和と共存のため他の列強からの自衛手段としてどうしても満州大陸は生命線だという考えがあったのでしょうが…今の感覚ではちょっと計り知れないように見受けられます。

 WIKIあたりで当時の歴史を閲覧すると 色んな学説があります… どれが正しいのかなど考え得ることはできず様々な側面からの考え方があるようです。戦争で負けた側が領土とその権益を割譲した上、莫大な賠償金を支払う。それが国際法上のルールであったのは瞭然です…。現代の感覚で戦争というものを語ること自体が間違いの元のような気もします…。早い話 戦争に良いも悪いも無く、勝つことが正義なのかも知れません…そのために 沢山の犠牲を払わなければいけないということです…。

 独断と偏見ですが 栄枯盛衰 いつかはどんなに栄えた国も終焉が来るのでしょうか。
 栄華を極め 広大な土地を統率し最盛期には周辺隣国から最強と言われた 清の衰退は日清戦争以前から始まっていたのです。我が国日本も開国し 侍の文化を捨て 刀から鉄砲 ちょんまげを落とし7.3分けに、西欧文化を取り入れ近代化の道を選択したわけです。まだまだ清朝では弁髪を首に巻きつけ青竜刀を振り回していたのではないでしょうか 近代武装をした西欧の列強に敵う訳もなく阿片戦争敗北、日清戦争も3か月余りで敗北、義和団の乱にて列強8国に宣戦布告するものの敗北 その都度 相手国に有利な条約を結び、莫大な賠償金をむしり取られていくわけです。そりゃー 国を憂う資本家やら知識人やら愛国者は黙っておれなかったでしょう…。
 「この国は他国の植民地になってしまう」 「冗談じゃない」 「清朝政府はダメだ」… 日本で近代教育を受けた 孫中山こと孫文が指導者となり打倒清朝を掲げ 辛亥革命 が始まるわけです。翌年 中華民国政府を仮設立し、臨時総統に孫文が任命されるのですが…あくまでもこれは暫定政府であり、まだまだ清朝の残党たちはゴチャゴチャ残り一国多政府状態だったのです。 
 清朝で最強だった袁世凱(えんせいがい)率いる北洋軍に孫文率いる革命軍討伐の命が下ります。孫文…「困った」…なぜなら 革命軍は素人、相手はプロです。敵う訳がありません。やむなく 孫文は 清朝から中華民国政府への寝返りを袁世凱に頼み その条件として総統の座を袁世凱に譲ることになります。 袁世凱が寝返れば もはや清朝には力はなく ここで 清の皇帝 溥儀は退位するわけですね
 ところが この袁世凱 中華民国初の選挙で選抜された国民党のメンバーを暗殺します。さすがに孫文も怒り、袁世凱に対し武装戦闘を挑むのですが返り討ちにされ 日本に亡命してしまいます。北洋軍は強かったということです。
 その後 袁世凱は皇帝を自称します。このような状況下 日本も清朝時代に築いた権益引き継ぎぎ、在華邦人の保護のため 5号からなる21か条をお願いします…。いくら袁世凱が北洋軍を率いていたとしても 日本には敵わないので ソ連に泣きを入れるも 渋々16カ条だけ結びます。
 
日本  …… 「清朝さん時代に引き続きよろしくお願いしますわ」
袁世凱 ……心の中…「まいったなぁー 日清戦争じゃ北洋軍はコテンパンにやられたし」
日本… 「 まさか ダメなの 」
袁世凱……心の中…「21カ条全部受け入れたら 民衆から腰抜けと思われるし…」
日本… 「 返事はぁー 」
袁世凱…「あのー、16カ条だけで勘弁してもらえないでしょうか」
日本… 「ち、しゃーねぇーなぁー 分かった よろしくな 」

 これじゃー国民の求心力を得ることは出来ません…その後袁世凱は病死します…。

 北京において袁世凱死後 北洋軍はまとまりがなくなり 安徽派(あんきは)と直隷派(ちょくれいは)で分裂し争うことになります。ちなみに列強国も抜け目なく この派閥争いに加わっています。 安徽派は親日的な活動をし、直隷派はアメリカの支援を受けていたのですが、、その後 馬賊出身の 張作霖(ちょうさくりん)率いる奉天派が 直隷派に味方し 親日の安徽派は破れてしまうのです…。 日本の勢力後退 が、…
 安徽派と奉天派の共同政権が始まるのですが、またここで仲間割れが起こります。そこで 日本は 支援していた安徽派が敗北したため張作霖(ちょうさくりん)率いる奉天派を支援をします…。結果 奉天派が勝利します…
 しかし、欧米列強イギリスやアメリカは 張作霖に 権益拡大のためすり寄ってきます…。時は第一次世界大戦も終わり ベルサィユ条約において 満州にある敗戦国ドイツ権益を日本が引き継ぐことなどの理由で 帝国主義反対の 5.4運動が中国全土に広がり 抗日ムードだったのです…。
 特に大陸権益に出遅れたアメリカは満鉄に対抗すべく鉄道建設支援に乗り気であり 張作霖は支援を受けていた日本に対して決別の意思を強めていくことになります…。
 この頃、 広東政府の国民改革軍(国民党)が配下の共産党と共に北京政府打倒のため北伐に向かいます。2回目の北伐で、張作霖 奉天派は敗北します…。この時の国民党リーダーが蒋介石で、その頭角を現してきます…。 
 国民党に敗北した 張作霖は奉天に向かうため列車で逃亡します…。
日本では内閣(田中儀一内閣)と在満州関東軍の間で 張作霖の対応に意見が分かれます…田中儀一は張作霖を再起させたいという意向 関東軍は傀儡政権には限界があり 張作霖は 日本に対して害を及ぼすという意見でした。…この段階で関東軍には 当てにならない傀儡政権でなく、傀儡国家構築 つまり 満州国建国の構想があったのではないでしょうか…
 張作霖は 関東軍の河本大作らの謀略により 逃亡中の列車爆破事件により死亡します。
このあたりから 日本軍部の独走が少し見えます…
 張作霖 死去後 息子の張学良(ちょうがくりょう)に奉天軍閥は受け継がれました。父 張作霖の教育方針により張学良は高い教養を身に付け満州軍閥争い時代は 親子で日本に協力的であり、20歳の時に訪日しています。しかし、父の爆殺事件以降は抗日に転じ、蒋介石率いる国民党の旗(青天白日旗)を次々と満州の各地に掲げ 反日感情を激化させていくのです。…日本軍によって父親を殺されたのですから その恨みもあったはずです。… 在満州関東軍としては日露戦争で大きな犠牲を払いながら得た 満州大陸の権益に危機感を感じます…。
 
 満州事変後 日本は満州に進行凄まじくみるみる占領していきます。 これには日本の内閣も困惑します。なぜなら列強国のひとつ アメリカが非常に怒っていたのです…さすがに政治側からするとアメリカ に睨まれることは厄介なはずです。アメリカの国務長官スティムソンは日本の外務大臣 幣原喜重郎(シゲハラキジュウロウ)に戦線の拡大停止を要求するのですが…すでに関東軍 戦線拡大をしてしまった後で アメリカ激怒します。他の欧米列強国も非難し始めます…。
 
日本は満州国建立後…国際連盟を自ら離脱します…
満州国は、溥儀を皇帝に五民族共和主義を政策に取り入れ独立国への道を歩み 特に停戦協定が結ばれ何事も無い期間が四年ぐらいは続いています…。

 内紛状態の中国も 一致団結抗日戦への決意を固めだします。かって関東軍に父親を殺害されたと思い、日本への忠誠は消え抗日派に転じた張学良だったのですが、蒋介石の方針により優先的に共産党と戦い 日本にはほとんど抵抗を示しませんでした。、これは 上の年号にもあるように 塘沽協定(停戦協定)を結んでいた理由もあり…。蒋介石は欧米列強から支援を受けながら 列強日本よりも共産党への対峙を優先していたのかも知れません…
 しかし、張学良は延安(えんあん)で共産党軍と戦いを続けるうちに 同じ中国人同士の殺し合いに疑問を感じ、徐々に共産党が主張する抗日民族統一戦線に共鳴を受け、蒋介石を拉致監禁し 共産党と協力し日本軍と戦うことを説得し同意させます。これが上の年号にある西安事件です。   翌年、盧溝橋での中国側の発砲により 盧溝橋事件が起き その後 本格的に日中戦争が始まるわけですが、盧溝橋事件の前、日本が知らぬ間に、国民党と共産党で第二次国共合作を成立させ…実質中国は一枚岩となっていたのです…。 しかし、この裏にソ連コミンテルンの存在があり、国民党政府を日本軍と戦わせお互いを疲弊させる目的もあったとも言われています もし、そうだとしたらそのコミンテルンの諜報活動は成功したということです。 蒋介石も最終的には 毛沢東率いる共産党軍に敗れ戦後台湾へと逃亡します。 張学良は西安事件後 自ら進んで国民党政府の裁判に出廷し拘束下におかれ 国民党敗北後、蒋介石とともに台湾へ移り、ほぼ生涯軟禁状態の生活を送るわけです。2001年まで存命しています。 蒋介石と張学良の間には何があったのでしょうか とても興味深いです…。

 日露戦争に勝ち、アジアで唯一 列強に名を連ね…第一次世界大戦でも勝ち抜いてきた当時の日本軍は非常に強かったということが分かってきたのですが…各国の思惑まで支配することはできないということですね まだまだ、戦争は続きます…。

to be continued